2015年8月16日日曜日

津田三蔵と神戸(『セルポート』150811号)


 

神戸今昔物語(第517号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(60)

 

津田三蔵と神戸

◆津田三蔵   明治24年5月11日、大津で巡査津田三蔵(1855~1891)が、ロシア帝国ニコライ皇太子にサーベルで切りつけて負傷させた(「大津事件」)。津田の動機の一つに、事件前に三井寺で、西南戦争忠魂碑に敬意を払わなかった白人に津田が不快感を持ったこともあった。

◆津田と西南戦争  明治5年3月、津田は東京鎮台名古屋分営(後、名古屋鎮台)に入営し、明治6年4月、金沢営所に配属された。明治8年1月、津田は陸軍伍長に昇進した。

明治10年2月15日、西郷隆盛が挙兵し、22日、西郷軍が熊本鎮台の攻撃を開始した。津田が所属する金沢の大隊は、別動旅団に編入されて、3月20日に日奈久(現八代市)に上陸し、熊本城を包囲する西郷軍の背後を衝いた。

 3月26日、津田は、戦闘中に左手人差し指と中指の間の貫通銃創を受け、八代包帯所で応急手当てを受けた後、長崎海軍病院に入院した。5月20日、退院した津田は、熊本大本営に出頭し、26日、船で鹿児島に渡り原隊に復帰した。

◆戦争終結  9月24日、西郷の自刃で戦争は終結した。

津田は、母宛の25日付け書簡で「当月廿四日午前、第四時ヨリ大進撃ニテ、大勝利、魁首西郷隆盛、桐野利秋ヲ獲斃シ大愉快之戦ニテ、(略)、此日、楽隊音楽ヲ奏シ、各部隊ニ日ノ丸ヲ掲ゲ 戦士ハ凱歌ヲ歌ヒ、勇気山ヲ抜ク」(樋爪修「津田三蔵書簡について」)と書いた。

◆西南戦争とコレラ  戦争終結で、帰還兵を満載した船が鹿児島から続々と神戸に到着した。

明治10年9月22日、神戸に着いた亀福丸に乗っていた帰還兵のうち7名がコレラを発病し4名が死亡した。兵庫県は海岸通2丁目に検疫委員出張所、和田岬に検疫消毒所を設置し、入港船の検疫を実施した。9月30日から10月2日までに、帰還兵の発病者は402名で、うち死亡者は108名に達した(「兵庫県検疫委員報告」明治10年10月6日)。さらに、10月だけで414人が発病し、この年、神戸市内だけで市民と帰還兵を合わせて903人が発病し、うち700人が死亡した。

なぜ帰還兵からコレラか。この年7月、中国アモイでコレラが発生した。8月19日、上海から長崎に寄港した英国船船員がコレラに感染していた。コレラが中国から九州に入り広がった。

◆津田、神戸に帰還  9月29日午後4時頃、津田は鹿児島から軍艦孟俊(357㌧)で神戸に到着した。帰還兵は軍艦と商船で輸送した。この日、鹿児島から、軍艦とは別に、住之江丸、敦賀丸(661トン)、兵庫丸(896トン)が、帰還兵を満載して神戸に到着している(カット参照)。3隻とも岩崎弥太郎の所有船で、船長は外国人であった。

 津田は、10月2日付の母宛の手紙で「上陸後、万自由ヲ得、恰も、別世界に蘇生スル心地仕、上陸後、愉快ヲ相極罷募リ候」と書いた(「上掲論文」)。

(津田の帰還艦名は大津市歴史博物館樋爪修館長にご教示いただいた。お礼申し上げる。)

2015年8月9日日曜日

「サッポロビールの父」神戸葺合村で行旅死亡(『セルポート』150801号)


『セルポート」2015-08-01号

神戸今昔物語(第516号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(59)

「サッポロビールの父」神戸葺合村で行旅死亡

◆北海道開拓使  前号に続き薩摩出身の黒田清隆(後、総理大臣)について書く。

黒田は戊申戦争の五稜郭の戦い(明治2年)で功を上げ、明治4年に「北海道開拓使」(以下「開拓使」)次官、同5年に長官(東京在勤)に就任した。開拓使は、明治2年設置の「北海道と樺太の行政・開拓を所管する官庁」であり、現在の用語でいえば「北海道開拓庁」と命名されるべき官庁である。

明治5年、北海道で良質の野生ホップが発見された。開拓使は、ドイツでビール醸造を学んだ中川清兵衛を迎えて「開拓使麦酒製造所」を開いた。後のサッポロビールである。

 明治10年6月26日、開拓使は天皇に「開拓使麦酒」を献上した。この日、天皇は京都御所で熊本から帰還した陸軍軍楽隊の演奏を楽しんだ。

◆村橋久成  開拓使で黒田の部下に村橋久成がいた。村橋家は薩摩藩の名門で、久成も将来家老職が約束された役職である御小姓組番頭として城中に詰めていた。

慶応元年、薩摩藩は、村橋、五代友厚、松木弘保(寺島宗徳)、森有礼ら計19人を英国に派遣した。翌年帰国した村橋は、五稜郭の戦いに「軍監」として参加し手柄を立てる。
 明治4年11月、村橋は開拓使に出仕し、奏任官7等、開拓権少書記に昇進していく。 

明治9年、村橋は「開拓使東京官園内」に建設が決定していた麦酒醸造所を、札幌に変更し、自ら建設の任にあたった。村橋をテーマにした小説『残響』の著者田中和夫は「村橋久成がいたからこそいまのサッポロビールが有る」と書いた。村橋はサッポロビールの生みの親である。

 明治14年5月、村橋は、突然、開拓使を辞職し、雲水姿で諸国行脚に出た。

◆葺合村の行旅死亡者  

11年後、『神戸又新日報』(明治25年10月12日号)に村橋の死亡公告が載った。

 

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                      鹿児島県鹿児島郡塩谷村        

                           村橋久成

一 相貌 年齢四十八歳 身幹五尺五寸位 顔丸ク色黒キ方 薄キ痘痕アリ 目大ニシテ 鼻隆キ方 前歯一本欠 頭髪薄キ方 其他常体  

一 着衣 紺木綿シャツ一枚 白木綿三尺帯一筋 

右ノ者 本年九月廿五日 当市葺合村於テ 疾病ノ為メ倒レ居リ 当庁救護中 同月廿八日ニ死亡ニ付仮埋葬ス 心当リノ者ハ申出ヘシ           

                       明治廿五年十月  神戸市役所

 

村橋は、巡査の質問に、当初、偽名と偽住所を告げたが、再度問われ、本名と出身地を告白し、3日後に死亡した。

◆開拓使官有物払下事件  明治14年、政府は開拓使を翌15年に廃止することとした。

 黒田は、1400万円を投じた船舶、炭鉱、工場等の官有財産を、同郷の五代友厚らが経営する関西貿易商会に、「38万円無利息30年賦」で払い下げようとした。世論が猛反発し、払い下げは中止となり、黒田は辞任した。

村橋は、同郷の薩摩人による癒着に抗議して雲水になった、と筆者は考えている。

(楠本利夫)

 

 死亡公告『神戸又新日報』(明治25年10月12日号)

 

 



2015年7月27日月曜日

西南戦争と折田年秀 久光宣撫勅使 『セルポート』150721号

神戸今昔物語(第515号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(58)

久光宣撫勅使

◆島津久光の動向  西郷の挙兵で、政府は元左大臣島津久光の動きを気にしていた。久光はもともと政府に批判的な姿勢であったからである。久光は西郷を疎んじていた。西郷を重用したのは、久光の異母兄の薩摩藩主島津斉彬である。

◆勅使派遣  久光に勅使を派遣することになった。公家出身外交官の柳原前光(さきみつ)が勅使に任じられた。柳原は、大正天皇の生母柳原愛子の兄で、「白蓮事件」で知られる歌人の柳原樺子(白蓮)の父である。柳原は後に伯爵、元老院議長になる。

 護衛として、黒田清隆(陸軍中将)と高島鞆之助(陸軍大佐)が兵700名を率い随行した。黒田も高島も薩摩出身である。

 明治10年3月8日、柳原は海路鹿児島に到着した。

 柳原は、鹿児島県庁に征討令発布と西郷、桐野、篠原の官位剥奪を通知し、県下における帯刀禁止、「密偵」として拘束されていた薩摩出身の警察官たち「視察団」全員の身柄引き渡しと、県内外国人の引き渡しを求めた。

◆局外中立  3月10日、久光は勅使を迎え、「いまさら暴挙を鎮圧することはできない。政府こそ暗殺問題の是非を明らかにするべきである」と述べ、自らを「局外中立」とした。

 護衛兵が弾薬を没収し火薬製造所を破壊した。

勅使は「視察団」の身柄を預かり、鹿児島県令大山綱良に東京への同行を命じた。大山は、黒田から「内務卿大久保に西郷の真意を説明するための上京」と伝えられていた。それでも、大山は死を覚悟していた。

◆大山県令逮捕  3月13日、玄武丸が鹿児島を出航した。15日、玄武丸が神戸に着いたとき、乗船してきた篠崎警察課長 が大山に逮捕状を示し、「あなたの上京は、政府命令で差し止めになった」と告げた。大山の隣の黒田の船室は空であった。大山はだまされていたことを知った。

政府は、西郷に同調していた大山を逆賊扱いし、逮捕して処断することを既に決定していた。「大久保に会わせる」は、大山を誘い出すための口実であった。 

◆3月15日折田日記  「午後、林内務小輔ヲ加納屋江訪ひしに、無程(ほどなく)、森岡氏も参会す」。内務小輔林友幸は長州出身で、後に元老院議官、枢密顧問官を歴任した。森岡は兵庫県権令森岡昌純である。

「鹿児島県令 大山氏、当夕、勅使柳原と同船上着に付、大山処分、林より森岡江被達たり、大山、此度、西郷等出県聞届けたるとの御届け書面、全く県令不心得之処置との事、依而、裁判相成るとの事」。

◆囚人服で護送  大山はフロックコートに山高帽の正装で、警官に囲まれて船を降り、神戸の裁判所に向かった。裁判所で官位剥奪を宣言された大山は、囚人服に着替えさせられ、神戸から玄武丸で東京へ護送された。9月30日、大山は長崎で斬首された
 森岡も薩摩出身であった。寺田屋事件(文久2年)の際、森山と大山らは、久光の命令を受けて「不穏分子」を襲撃した同志であった。その森岡が、兵庫県権令として大山を逮捕する役回りを演じたのである。

神戸海外移住者顕彰事業 『セルポート』150711号

神戸今昔物語(第514号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(57)

神戸海外移住者顕彰事業(臨時)

◆神戸とブラジル  今号は脱線して海外移住がテーマである。理由は「神戸市広報紙KOBE」(2015年7月1日号)の「神戸とブラジル」特集の表紙で、メリケンパーク「海外移住者像」の写真を見つけたからである。

◆海外移住者像  筆者が『セルポート』にこの連載を始めた目的は、筆者たちが1999年7月から展開していた市民運動「神戸海外移住者顕彰事業」を宣伝するためであった。

運動を始めた頃、「移民は暗い。暗い話は神戸のイメージに合わない」「移住事業は国策。現地で苦労した移住者は祖国を恨んでいる」「寝た子を起こすな」などの反対意見が圧倒的に多かった。

運動はブラジルを中心とする海外日系人の共感を呼んだ。内外から寄せられた浄財で2001年4月に移住者像を建立した。作者は彫刻家の菊川晋久氏である。

山手の「海外移住と文化の交流センター」(旧移民収容所)とメリケンパークの「移住者像」を結ぶ坂道「移住坂」を訪れる観光客、海外日系人は多い。

◆ブラジルからの手紙  2006年4月、筆者に1通の航空便が届いた。差出人はサンパウロ在住の日系一世女性である。一部を紹介する。

「拝啓 楠本利夫様  (『移住坂~神戸海外移住史案内~』)を読みまして、自分が13歳のとき、家族と供に過ごしたあの懐かしい移民収容所が、大勢の心ある方達のお陰で、海外日系人会館として保存される事に大きな感激を受けました。思い出しますと、1960年7月17日サントス港着のオランダ船チサダネ号の長い航海の旅はまだ子供心には全てが珍しい初体験の連続でしたので、沖縄の那覇港での、あの身を切られるような、夜になっても涙がかわかなかった辛い悲しさを紛らわせてくれました」。

◆ブラジルでの生活  「ブラジルの生活は、青春時代はなく、家族のためにただ働きずくめの生活の中で、家族にアパートを買い、両親を助けながら(略)、心の奥では、やっぱり子等の将来を考えれば、どうして、母はどの子にも相談せずブラジル移住を決意し行動したのかと、内心反抗しながらも、家族が皆、楽になれるよう努力してきました」。

◆神戸の思い出 「神戸旧移民収容所の思い出に残っていますのは、前の坂を下りた通りに、ひとりで散髪に下りていって、髪をきる間、理髪店の方達に移民としてブラジルへ行く話をしましたら、散髪代金を受け取らないで、幸せにねーと言われたのを思い出します。坂を上りながら、さみしくなった私はなぜか後ろを振り向きました。すると何と、あの理髪店の皆様が通りに立って手を振っているではありませんか! びっくりしましたが同様に手を振って移民収容所へ帰ったのを今でも覚えています。当時の神戸の方達にとって、当たり前の行動だったのでしょうね。

本当に温かい日本人の心がしのばれます」。

手紙を読んだ後、筆者は涙が止まらなかった。

市民運動の経緯は、黒田公男『神戸とブラジル』(神戸新聞総合出版センター)と拙著『移住坂』(セルポート)に詳しい。


西南戦争と折田年秀 征討の詔勅 『セルポート』150701号

神戸今昔物語(第513号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(56)
 
西南戦争と折田年秀(4)征討の詔勅
 
◆征討詔勅  「大久保内務卿、16日東京より着津、当日上京なり」(2月17日『折田日記))。

2月17日、西郷鎮撫勅使として有栖川熾仁(たるひと)親王が任じられ、親王は18日に明治丸で神戸を発ち鹿児島へ向うこととなった。

親王と神戸はゆかりが深い。明治27年秋、親王の別荘「舞子離宮」が竣工した。現在の舞子ビラである。同年末、親王は日清戦争総参謀長として広島大本営に出仕中に発病し、明治28年1月2日から舞子離宮で療養したが、1月15日に息を引き取った

18日、折田は日記に「廟議を拝聴するに、有栖川宮勅使に召立らる、に御定決之由、併し、大久保氏は断然追討を奏請、との港(「巷」)説紛々たり」。当時、大久保が鹿児島征討を主張しているとの噂が流れていた。事実ではない。大久保は西郷説得のため、自ら鹿児島に行くことまで主張していたのである。

このとき、折田51歳、西郷は折田より2歳5か月年下で、大久保は西郷の2歳8か月下であった。3人は元薩摩藩士である。

◆征討総督任命  勅使派遣の直前になって、熊本鎮台から「将に戦端を開かんとす」との急報が入り、派遣は中止された。2月19日、太政大臣三条実美名で征討の詔書が発表された。

親王は「征討総督」に任じられ、勅使の護衛兵司令長官に内定していた野津鎮雄少将(薩摩出身)と三好重臣少将(長州出身)は、それぞれ、征討第一旅団と征討第二旅団の司令長官に任じられた。勅使護衛兵として神戸に集結していた東京と大阪の兵員は、第一、第二旅団に編制替えされた。2月20日早朝、両旅団は、赤竜丸、社寮丸、玄武丸、蓬莱丸に分乗して神戸を出発した。目的地は九州である。

折田は2月20日の日記に「行在所第二号を以て、鹿児島県追討被仰出候事」、2月21日には「兵隊及軍隊、追々繰出しに成る、市中静謐なり」と書いた。

◆初の旅団編成  我が国で旅団が登場したのはこのときが最初である。陸軍省『軍制綱領』(明治8年)では、日本を7「軍管」に分け、軍管ごとに1「鎮台」を設置し、1軍管は2~3の師管で構成し、師管ごとに歩兵一連隊が設置されていた。軍団・旅団は戦時編成として想定されていた(橋本昌樹『田原坂』)。

2月25日、西郷が賊徒として、陸軍大将の官位をはく奪された。軍を統率する資格がある我が国ただ一人の陸軍大将が不在となったのである。
征討軍は、常備軍を出動させることになった。常備軍は連隊規模までであった。旅団が編成されることになった。旅団は各地の連隊を集めて組織された。混成旅団で各地域から徴兵された兵隊が一緒に戦うことになる。地元から徴兵された連隊兵は、地域性が強く平民でも旧藩の意識をそのまま残していた。神戸で合流した東京と大阪の兵たちは、言葉遣い物腰も異なる兵隊が、同じ号令で同じ動作をすることに驚いたり感心したりした。近衛兵だけは例外的に全国各隊から優秀な兵隊を集めて編成していた。

西南戦争と折田年秀(3)『セルポート』150621号


西南戦争と折田年秀(3)政府の苦悩

 
◆西郷の関与  政府は鹿児島の不穏な動きに神経をとがらせていた。内務卿大久保利通は、暴動が全国に飛び火することを警戒し、追討令と陸海軍動員の準備を進めることとした。

1月28日、陸軍卿山縣有朋は、熊本鎮台司令官谷干城に鹿児島の動きを伝え、防備強化を指示した。

2月5日、神戸京都間鉄道開通式が天皇臨御のもと盛大に行われた。

大久保は、陸軍大将西郷隆盛が暴動に関与しているとは思えなかった。西郷が「名分」を大事にする男であることを知っていたからである。大久保は2月7日付の伊藤博文宛の書簡で、「鹿児島の暴発は桐野利秋以下の行動に相違なく、西郷はこのような軽挙をするはずがない」と書いた。

2月7日、海軍大輔川村純義が、高尾丸で神戸から鹿児島へ向かった。西郷も川村に会いたかったが、私学校党が妨害したため、二人は面会できなかった。

2月9日、大久保は、鹿児島県庁から派遣された渋谷彦助から「西郷は、決起を求められたが、同意せず、急進派への説諭も効果がないとみて姿を隠した」との報告を受け、右大臣岩倉具視に伝えた。岩倉は「天下大幸」と返信した。後に、渋谷報告は虚言であることが判明した。

2月10日、近衛歩兵、東京鎮台、大阪鎮台に神戸で待機するよう命令が下った。

12日、閣議で、大久保を京都に派遣することを決めた。天皇は京都にいたので、政府首脳も東京と京都に分かれていた。

15日、折田は日記に「昨今より近衛兵幷に海軍等、追々繰り込みたり、大凡四千人なり、軍艦も同断、入津に及候」と書いた。

 15日朝、薩摩軍が鹿児島を出発した。

◆勅使派遣  

16日、海路神戸に着いた大久保は、伊藤、川村と会見し、対応を協議し、その夜、大久保と伊藤は汽車で京都へ行った。太政大臣三条実美の宿での会議で、大久保は「自分と西郷は子供の時から家族同様につきあってきた。西郷の心を知るものは自分以外にない。自分が鹿児島に行き西郷に直接説得すれば私学校党を抑えられる」と説いた。伊藤が反対した。大久保に万一のことがあれば、内務卿としてこの難局を乗り切れる人物はいない。岩倉も自ら勅使に立とうとしたが、周囲から止められて断念した。

折田は「大久保内務卿、16日東京より着津、当日上京なり」と日記(2月17日)に書いた。

 17日午前9時、三条、内閣顧問木戸孝允、大久保、伊藤が御所内の小御所に集まり協議し、鹿児島へ勅使を派遣することを決め上奏した。

天皇は勅使に有栖川熾仁親王を任じた。親王は18日に明治丸で神戸を発ち鹿児島へ向うこととなり、護衛として、野津鎮雄少将(薩摩)と三好重臣少将(長州)が、騎兵一中隊、歩兵四大隊、軍艦1隻を率いて行くことになった。

そこへ、熊本鎮台から「鹿児島暴徒の先鋒、既に県下に闖入」「将に戦端を開かんとす」との急報が入った。勅使派遣は中止となった。

西南戦争と折田年秀(2)『セルポート』150611号


西南戦争と折田年秀(2)

◆西郷辞任  時計を巻き戻す。

折田が、猟官運動の末、念願の湊川神社宮司の辞令を受けたのは、明治6年5月である。

この年10月24日、西郷隆盛は政府に辞表を提出した。征韓論が岩倉、大久保らにより阻止されたためである。岩倉は辞表を受理すべきかどうかためらった。大久保は受理するよう背中を押した。参議と近衛都督の辞表だけが受理され、陸軍大将の辞表は受理されなかった。

◆決起の名分  明治6年11月、西郷は鹿児島へ帰った。西郷は、鹿児島に「私学校」を設立した。軍人養成学校である。

私学校勢力は鹿児島県の行政機構に次第に浸透していった。警察も私学校党が人事を掌握した。県令大山綱吉は私学校に協力的であった。

明治10年12月、大警視川路利良は鹿児島に密偵を派遣した。説得と離反が目的である。けれども、私学校党が密偵を逮捕し、西郷暗殺計画があったとの供述書をとった。

大隅半島で狩猟を楽しんでいた西郷を、私学校党が2月3日鹿児島に連れ戻した。西郷は厳重に警備されていた。2月5日、私学校で会議が開催された。この日、神戸では、神戸京都間鉄道開通式が明治天皇臨席のもと行われていた。

私学校党の面々が熱く西郷に挙兵を迫った。西郷は「名分」がないことを悩んだ。西郷の頭では、挙兵の名分は「国難」以外にはない。結局、西郷は、急進派に押される形で挙兵することになった。

◆西郷説得  当初、政府は、西郷は名分がなければ挙兵しないと踏んでいた。天皇に供奉して神戸にきていた海軍大輔川村純義が、状況視察のため鹿児島に派遣されることになった。

2月7日、川村は、高尾丸に乗って海路神戸を出航した。9日、鹿児島に到着した川村が目にしたものは、出兵準備を進める私学校党の面々であった。とても上陸できる環境ではない。 

川村は鹿児島県令の大山綱良と高尾丸船内で会見した。大山は、西郷暗殺計画の証拠を得たとして政府を非難し、西郷は政府に尋問するため上京予定で、護衛のため私学校党も西郷に随従すると伝えた。川村は、暗殺計画は信じがたいとして、挙兵を思いとどまるよう求めた。大山は応じず、陸軍大将が兵を率いるのは当然だと言い放った。

川村と西郷の会見を大山が仲介することとなった。西郷は「川村と面接する。一利なしとせざるべし」と言った。ところが、直前に私学校党幹部が会見を阻止した。鹿児島出身の川村は、後に、自分が5~6日早く薩摩へ行っていたら、西郷に「賊名は蒙らせなかった」だろうと悔やんだ。

◆護衛が西郷を外部と遮断  2月11日、西郷は鹿児島病院のW・ウイルス医師を訪れ、旧知のアーネスト・サトウと会った。サトウは、西郷には、常に20名の護衛が付き添っていて、西郷の動きを注意深く監視し、うち4~5名は、西郷が「入るな」と命じたにもかかわらず、部屋の中へ入ると主張してゆずらなかったと書いている。

護衛には、西郷を警護するだけでなく、西郷を外部と遮断する任務も与えられていた。