『セルポート」2015-08-01号
神戸今昔物語(第516号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(59)
「サッポロビールの父」神戸葺合村で行旅死亡
◆北海道開拓使 前号に続き薩摩出身の黒田清隆(後、総理大臣)について書く。
黒田は戊申戦争の五稜郭の戦い(明治2年)で功を上げ、明治4年に「北海道開拓使」(以下「開拓使」)次官、同5年に長官(東京在勤)に就任した。開拓使は、明治2年設置の「北海道と樺太の行政・開拓を所管する官庁」であり、現在の用語でいえば「北海道開拓庁」と命名されるべき官庁である。
明治5年、北海道で良質の野生ホップが発見された。開拓使は、ドイツでビール醸造を学んだ中川清兵衛を迎えて「開拓使麦酒製造所」を開いた。後のサッポロビールである。
明治10年6月26日、開拓使は天皇に「開拓使麦酒」を献上した。この日、天皇は京都御所で熊本から帰還した陸軍軍楽隊の演奏を楽しんだ。
◆村橋久成 開拓使で黒田の部下に村橋久成がいた。村橋家は薩摩藩の名門で、久成も将来家老職が約束された役職である御小姓組番頭として城中に詰めていた。
慶応元年、薩摩藩は、村橋、五代友厚、松木弘保(寺島宗徳)、森有礼ら計19人を英国に派遣した。翌年帰国した村橋は、五稜郭の戦いに「軍監」として参加し手柄を立てる。
明治4年11月、村橋は開拓使に出仕し、奏任官7等、開拓権少書記に昇進していく。
明治4年11月、村橋は開拓使に出仕し、奏任官7等、開拓権少書記に昇進していく。
明治9年、村橋は「開拓使東京官園内」に建設が決定していた麦酒醸造所を、札幌に変更し、自ら建設の任にあたった。村橋をテーマにした小説『残響』の著者田中和夫は「村橋久成がいたからこそいまのサッポロビールが有る」と書いた。村橋はサッポロビールの生みの親である。
明治14年5月、村橋は、突然、開拓使を辞職し、雲水姿で諸国行脚に出た。
◆葺合村の行旅死亡者
11年後、『神戸又新日報』(明治25年10月12日号)に村橋の死亡公告が載った。
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鹿児島県鹿児島郡塩谷村
村橋久成
一 相貌 年齢四十八歳 身幹五尺五寸位 顔丸ク色黒キ方 薄キ痘痕アリ 目大ニシテ 鼻隆キ方 前歯一本欠 頭髪薄キ方 其他常体
一 着衣 紺木綿シャツ一枚 白木綿三尺帯一筋
右ノ者 本年九月廿五日 当市葺合村於テ 疾病ノ為メ倒レ居リ 当庁救護中 同月廿八日ニ死亡ニ付仮埋葬ス 心当リノ者ハ申出ヘシ
明治廿五年十月 神戸市役所
村橋は、巡査の質問に、当初、偽名と偽住所を告げたが、再度問われ、本名と出身地を告白し、3日後に死亡した。
◆開拓使官有物払下事件 明治14年、政府は開拓使を翌15年に廃止することとした。
黒田は、1400万円を投じた船舶、炭鉱、工場等の官有財産を、同郷の五代友厚らが経営する関西貿易商会に、「38万円無利息30年賦」で払い下げようとした。世論が猛反発し、払い下げは中止となり、黒田は辞任した。
村橋は、同郷の薩摩人による癒着に抗議して雲水になった、と筆者は考えている。
(楠本利夫)
死亡公告『神戸又新日報』(明治25年10月12日号)
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