西南戦争と折田年秀(2)
◆西郷辞任 時計を巻き戻す。
折田が、猟官運動の末、念願の湊川神社宮司の辞令を受けたのは、明治6年5月である。
この年10月24日、西郷隆盛は政府に辞表を提出した。征韓論が岩倉、大久保らにより阻止されたためである。岩倉は辞表を受理すべきかどうかためらった。大久保は受理するよう背中を押した。参議と近衛都督の辞表だけが受理され、陸軍大将の辞表は受理されなかった。
◆決起の名分 明治6年11月、西郷は鹿児島へ帰った。西郷は、鹿児島に「私学校」を設立した。軍人養成学校である。
私学校勢力は鹿児島県の行政機構に次第に浸透していった。警察も私学校党が人事を掌握した。県令大山綱吉は私学校に協力的であった。
明治10年12月、大警視川路利良は鹿児島に密偵を派遣した。説得と離反が目的である。けれども、私学校党が密偵を逮捕し、西郷暗殺計画があったとの供述書をとった。
大隅半島で狩猟を楽しんでいた西郷を、私学校党が2月3日鹿児島に連れ戻した。西郷は厳重に警備されていた。2月5日、私学校で会議が開催された。この日、神戸では、神戸京都間鉄道開通式が明治天皇臨席のもと行われていた。
私学校党の面々が熱く西郷に挙兵を迫った。西郷は「名分」がないことを悩んだ。西郷の頭では、挙兵の名分は「国難」以外にはない。結局、西郷は、急進派に押される形で挙兵することになった。
◆西郷説得 当初、政府は、西郷は名分がなければ挙兵しないと踏んでいた。天皇に供奉して神戸にきていた海軍大輔川村純義が、状況視察のため鹿児島に派遣されることになった。
2月7日、川村は、高尾丸に乗って海路神戸を出航した。9日、鹿児島に到着した川村が目にしたものは、出兵準備を進める私学校党の面々であった。とても上陸できる環境ではない。
川村は鹿児島県令の大山綱良と高尾丸船内で会見した。大山は、西郷暗殺計画の証拠を得たとして政府を非難し、西郷は政府に尋問するため上京予定で、護衛のため私学校党も西郷に随従すると伝えた。川村は、暗殺計画は信じがたいとして、挙兵を思いとどまるよう求めた。大山は応じず、陸軍大将が兵を率いるのは当然だと言い放った。
川村と西郷の会見を大山が仲介することとなった。西郷は「川村と面接する。一利なしとせざるべし」と言った。ところが、直前に私学校党幹部が会見を阻止した。鹿児島出身の川村は、後に、自分が5~6日早く薩摩へ行っていたら、西郷に「賊名は蒙らせなかった」だろうと悔やんだ。
◆護衛が西郷を外部と遮断 2月11日、西郷は鹿児島病院のW・ウイルス医師を訪れ、旧知のアーネスト・サトウと会った。サトウは、西郷には、常に20名の護衛が付き添っていて、西郷の動きを注意深く監視し、うち4~5名は、西郷が「入るな」と命じたにもかかわらず、部屋の中へ入ると主張してゆずらなかったと書いている。
護衛には、西郷を警護するだけでなく、西郷を外部と遮断する任務も与えられていた。
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