西南戦争と折田年秀(3)政府の苦悩
1月28日、陸軍卿山縣有朋は、熊本鎮台司令官谷干城に鹿児島の動きを伝え、防備強化を指示した。
2月5日、神戸京都間鉄道開通式が天皇臨御のもと盛大に行われた。
大久保は、陸軍大将西郷隆盛が暴動に関与しているとは思えなかった。西郷が「名分」を大事にする男であることを知っていたからである。大久保は2月7日付の伊藤博文宛の書簡で、「鹿児島の暴発は桐野利秋以下の行動に相違なく、西郷はこのような軽挙をするはずがない」と書いた。
2月7日、海軍大輔川村純義が、高尾丸で神戸から鹿児島へ向かった。西郷も川村に会いたかったが、私学校党が妨害したため、二人は面会できなかった。
2月9日、大久保は、鹿児島県庁から派遣された渋谷彦助から「西郷は、決起を求められたが、同意せず、急進派への説諭も効果がないとみて姿を隠した」との報告を受け、右大臣岩倉具視に伝えた。岩倉は「天下大幸」と返信した。後に、渋谷報告は虚言であることが判明した。
2月10日、近衛歩兵、東京鎮台、大阪鎮台に神戸で待機するよう命令が下った。
15日、折田は日記に「昨今より近衛兵幷に海軍等、追々繰り込みたり、大凡四千人なり、軍艦も同断、入津に及候」と書いた。
15日朝、薩摩軍が鹿児島を出発した。
◆勅使派遣
16日、海路神戸に着いた大久保は、伊藤、川村と会見し、対応を協議し、その夜、大久保と伊藤は汽車で京都へ行った。太政大臣三条実美の宿での会議で、大久保は「自分と西郷は子供の時から家族同様につきあってきた。西郷の心を知るものは自分以外にない。自分が鹿児島に行き西郷に直接説得すれば私学校党を抑えられる」と説いた。伊藤が反対した。大久保に万一のことがあれば、内務卿としてこの難局を乗り切れる人物はいない。岩倉も自ら勅使に立とうとしたが、周囲から止められて断念した。
折田は「大久保内務卿、16日東京より着津、当日上京なり」と日記(2月17日)に書いた。
17日午前9時、三条、内閣顧問木戸孝允、大久保、伊藤が御所内の小御所に集まり協議し、鹿児島へ勅使を派遣することを決め上奏した。
天皇は勅使に有栖川熾仁親王を任じた。親王は18日に明治丸で神戸を発ち鹿児島へ向うこととなり、護衛として、野津鎮雄少将(薩摩)と三好重臣少将(長州)が、騎兵一中隊、歩兵四大隊、軍艦1隻を率いて行くことになった。
そこへ、熊本鎮台から「鹿児島暴徒の先鋒、既に県下に闖入」「将に戦端を開かんとす」との急報が入った。勅使派遣は中止となった。
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