2014年9月20日土曜日

「神戸ホーム(神戸女学院)創立(明治8年)」「折田年秀日記」『セルポート』140911号


神戸ホーム創立(明治8年)(3)

◆女性宣教師  明治6年3月31日、米国人女性宣教師E.タルカットとJ.E.ダッドレーが神戸に到着した。切支丹禁教の高札を2月24日に撤去されていた。

明治8年10月、2人は、山本通に神戸ホームを創設した。後の神戸女学院である。    

2人の来神に先立ち、神戸では、アメリカン・ボードから派遣されたD.C.グリーン(明治2年11月来日、横浜を経て明治3年来神)とJ.D.デイヴィス(明治4年10月来神)、医師のJ.C.ベリー(明治5年4月来神)が、布教活動をしていた。

デイヴィス夫妻は、明治5年頃から三田方面で伝道を始めていて、旧三田藩主九鬼隆義と夫人、家族達と親しくなっていた。明治5年夏、避暑のため有馬にいた夫妻を夫人が子供を連れて訪ねてきたこともあった。

◆私塾設立  2人の女性宣教師は、日本人が前年に設立した英語学校の教務補助から活動を開始した。当時、女子教育は不要と考えられていた。生徒は、九鬼と旧三田藩士の子弟たちであった。

明治6年10月、2人は神戸花隈村の前田兵蔵の家を借り、三田の男女10数人に英語と唱歌を教え始めた。生徒は徐々に増え、明治7年4月には北長狭通の白洲退蔵の持家を借り受けて、数名の女学生を集めて私塾で英語教育を始めた。白洲退蔵は三田藩の儒学者で白洲次郎の祖父である。

◆折田年秀宮司  明治6年5月、湊川神社に折田年秀宮司が赴任した。折田は、教部省から教導職に任命されていた。職務に忠実な折田は、グリーン、デイヴィス等の布教活動を熱心に監視し、明治7年1月、詳細な報告書を教部省に送った。

◆神戸ホーム  明治7年5月、在日伝道団は、総会で「主たる伝道地に寄宿舎制女学校の設立と学校管理に適した女性宣教師の派遣」を本国のアメリカン・ボードに訴えることを決議した。開港場神戸は重要な伝道地であった。グリーンは、「2人の女性宣教師が始めた北長狭通の学校が、伝道上も効果をあげている」と報告した。

神戸のアメリカ人宣教師達は、寄宿学校に適した借家を探した。適当な物件は見当たらなかったため、寄宿舎を新築することとなった。建設費6000ドルは、本国の伝道会からの寄附5,200ドルと、日本人信者の寄附800円(1ドル=1円)でまかなった。日本人の寄付者は、九鬼と旧三田藩士の白洲退蔵、前田泰一、鈴木清らであった。九鬼とその部下たちは、開港後神戸に来て土地投機で大金を手に入れていた。

明治8年3月、2人は山本通4丁目に6,600㎡の土地を購入し、建物建築を開始した。10月、木造2階建て500㎡の洋館が完成した。10月12日、神戸ホームが開校した。この日が神戸女学院の創立記念日となっている。

明治9年、若い女性宣教師V.O.クラークソンが着任した。クラークソンとタルカットは教育方針をめぐり衝突することがあった。 

明治10年1月、教部省が廃止され、キリスト教布教活動への制度的監視は終了した。

2014年9月8日月曜日

「神戸ホーム(2)」(明治8年) 「折田年秀日記」(『セルポート』140911号)


神戸今昔物語(通産第486号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(29)

 

神戸ホーム創立(明治8年)(2)

 

◆神戸ホーム  明治6年2月24日、政府は切支丹禁制高札を撤去した。3月31日、米国人女性宣教師ダッドレーとタルカットが神戸に上陸した。2人は、明治8年10月12日、山本通に神戸ホームを創設した。後の神戸女学院である。

◆切支丹弾圧  江戸末期から明治初期にかけての長崎浦上でのキリスト教徒弾圧は各国を激怒させた。明治2年12月18日、大納言岩倉具視は各国公使に「我々はキリスト教自体を排斥しているものではないが、キリスト教の日本への導入を許可できない。信奉を是認すれば、深刻な国内亀裂を招来し我が国を分裂させるだろう。しかし、今ではそれも和らげられたことをお認めいただきたい。従来キシシタンに対する処罰は磔刑であった」(『外国新聞に見る日本』)と説明した。

◆岩倉使節団  明治4年11月12日、政府は岩倉を特命全権大使として欧米に派遣した。目的は、締約国への国書捧呈、条約改正予備交渉、欧米の制度文物の調査である。 

 明治5年1月25日(1872.3.4)、岩倉は米国グラント大統領に謁見した。

ニューヨークタイムズ(1872.3.29)は、岩倉の政府への影響力を、「岩倉は力を持っていると主張する者もいるが、彼はそのような力を実際は政府内で持っていないか、あるいは、宗教の自由のためにそのような力を行使したくないのか、どちらかであると不本意ながら考えざるを得ない」と書いた。

米国との条約改正交渉を開始しようとした岩倉に、国務長官は天皇の全権委任状が必要と指摘した。滞米中の駐日英国代理公使フランシス・アダムスと、ドイツ公使マックス・ブラントは岩倉を訪れ、片務的最恵国待遇規定等を持ち出し、日米単独交渉を論難した。6月19日(7.24)、岩倉は条約改正交渉打ち切りを米国政府に通告した。

◆各国元首訪問  その後、岩倉は欧州に渡り、英国ヴィクトリア女王(1872.12.5)、フランス皇帝(12.26)、ベルギー国王(1873.2.18)に謁見した。

各国は、岩倉に内地開放とキリスト教解禁を求めた。

岩倉は、切支丹禁制高札は条約改正交渉の妨げになる、と政府に報告した。政府は、明治6年2月24日、高札を撤去した。

 続いて、岩倉は、ドイツ国王とビスマルク、ロシア皇帝、デンマーク国王、スエーデン国王、イタリア皇帝、オーストリア皇帝、スイス大統領に謁見し、7月9日、マルセイユから海路帰国の途に就いた。

◆湊川神社参詣  9月9日神戸に到着した岩倉は、10日湊川神社に参拝した。宮司折田年秀は不在であった。折田は日記に「岩倉公参詣之由也」と書いた。

湊川神社は兵庫県内のキリスト教布教監視拠点であった。この日、折田は早朝から教導職の僧侶を招集した会議を主催し、その後、西宮に赴いた。神社に帰ったのは午後5時であった。東京から「米国教師婦人募勤」についての書面が届いていた。冒頭の2人の女性宣教師である。

2014年8月27日水曜日

「神戸ホーム」(明治8年) 「折田年秀日記」(『セルポート』2014.9.1号)


神戸今昔物語(通産第485号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(28)

 

神戸ホーム(明治8年)

 

◆2人の女性宣教師  明治6年3月31日、2人の米国人女性宣教師が神戸に上陸した。後に神戸の歴史に名を残すこととなる2人である。

その15日前の3月16日、一人の男が、鹿児島から大阪経由で神戸に到着した。後に湊川神社初代宮司となる薩摩藩士折田年秀(48歳)である。

◆神戸ホーム  女性宣教師は、米国アメリカン・ボード(米国の超教派的な海外伝道組織)から神戸に派遣されたイライザ・タルカット(Eliza Talcott、36歳)とジュリア・ダッドレー(Julia E.Dudley、33歳)である。2人は。着任2年7か月後の明治8年10月12日に、山本通に「神戸ホーム」を創立した。神戸で初の女学校である。設立には三田藩の元藩主九鬼隆義とその家臣たちが協力した。神戸ホームは、明治12年に英和女学校、明治27年に神戸女学院と改称し、昭和8年に西宮市岡田山に移転した。

◆折田の上京  明治6年3月13日朝、折田は、三邦丸に乗り鹿児島を出発した。自身の湊川神社初代宮司就任を各方面に働きかけて実現するためである。

3月14日、大阪に到着した折田は、大阪、京都、神戸の知人を訪問し協力を依頼した。

3月18日、折田は湊川神社に参拝した。神社は前年の明治5年5月25日に、全国からの寄付と地元の勤労奉仕で創建されていた。宮司はまだ決まっていなかった。この日、午後5時半、折田は米国船オレゴニア号に乗り、横浜経由で東京へ向った。

思えば、折田が島津久光を通じて、楠木正成を祀る神社の摂津湊川への創建を朝廷に建言したのは9年前の1864年であった。その後、明治維新を経て社会が激変した。

折田は東京で、西郷隆盛、松方正義、渋沢栄一らの支援を受けて精力的に猟官運動を展開した。明治6年5月、折田は教部省から湊川神社宮司への発令を受け。同時に、教導職「大講義」に任命された。教導職の任務は住民に神道を教えることと、キリスト教布教状況の調査である。折田は兵庫県内のキリスト教布教活動を監視することとなった。

◆切支丹禁制の高札撤去  切支丹禁制の高札は、2人の女性宣教師が神戸に上陸する約1か月前の2月24日に撤去されていた。欧米訪問中の岩倉具視に、米国が布教禁制政策を抗議し、岩倉から報告を受けた政府が、条約改正に障害があるとして撤去したのである。

撤去された切支丹禁制高札はつぎの内容であった。

「一、切支丹宗門之儀ハ是迄御制禁之通固ク可相守候事

 一、邪宗門之儀ハ固ク禁止之事 

     慶応四年  太政官」

明治6年2月24日の太政官布告は、「従来高札面ノ儀ハ、一般熟知ノ事ニ付、向後取除可申事」であった。キリシタン禁制は既に一般に知られているから高札を撤去するという内容である。高札は撤去したけれども、政府はキリスト教布教に神経をとがらせていた。我が国の国是である神道の教義とキリスト教精神が相いれないと考えていたからである。

2014年8月6日水曜日

「前島密設計の初代神戸郵便局舎」『セルポート』140811号


前島密設計の神戸郵便局庁舎完成(明治8年)

 
◆神戸郵便局新局舎  明治8年1月1日、「神戸郵便役所」は「神戸郵便局」と改称された。5月、栄町6丁目に新局舎が完成した。当時は洋館が珍しかったので、地方から弁当を持って見学に来る人も多かった。

局舎は「日本郵便の父」前島密が設計した。前島は、兵庫奉行柴田剛中の補佐役として、神戸開港準備、居留地建設等に従事した。明治2年12月、前島は民部省九等出仕を拝命し、翌明治3年5月、租税権正兼駅逓権正(駅逓司長官)となり、郵便制度の近代化に着手することになる。

「郵便局の建築図案などは、誰一人知っている者がないので、私が自身図案者ともなり、監督者ともなって、そのため長崎まで奔走した」と前島は当時を懐古し、明治10年1月、神戸郵便局が明治天皇行在所となったとき「私は無上の光栄だと感じた」(『郵便創業談』)。

◆明治天皇2度目の神戸行幸  明治10年1月、天皇が「大和国並京都」に行幸された。当初予定は、1月24日にお召艦高尾丸で横浜を出航し、神戸に26日に到着し、行在所神戸郵便局に宿泊されこととなっていた。

高尾丸は予定どおり横浜を出航した。途中、波浪のため、予定を変更し、天皇は、三重県鳥羽に上陸して常安寺に宿泊された。

27日、高尾丸は鳥羽を出航し28日午前7時に神戸に到着した。停泊中の艦船から一斉に祝砲が発せられた。天皇は端船に乗り移り、三番波止場から上陸し、神戸郵便局へ騎馬で向われた。沿道には小学生と大阪鎮台兵が整列して奉迎した。天皇は9時21分、郵便局に到着された。予定が1日遅れたため、神戸郵便局での宿泊は取りやめとなった。

予定変更は関係者を困惑させた。通信手段が未整備であったからである。神戸電信局は明治3年8月に新設されていたが、電話の開通は、明治26年3月25日の神戸電話交換局開設を待たなければならなかった。

神戸郵便局は、局舎が行在所となったため、1月21日から弁天浜の三井組事務所(三井組銀行)に臨時移転し業務を行った。場所は現在のハーバーランドの神戸市産業振興センター東側である。職員一同、局舎が行在所になったことを非常に光栄に思い喜んだ。

◆「折田日記」  「一月廿八日、晴。午前第六時三十分、於湊川尻打掲(揚)ケ三発、追々砲号に付、直に礼服、当社御門前ニて、諸神官教職を指揮シテ、直ニ繰出」。

午前6時30分、湊川尻から、高尾丸到着を知らせる合図信号が打ち上げられた。号砲が続いた。礼服の折田は、湊川神社正門前に待機させていた神官と教導職総勢100余名を引き連れて、県庁との事前打ち合わせどおり、栄町5丁目と6丁目に整列させた。「前面ハ海軍ヲ以テ警衛ス」。神官と教導職は、海軍兵士の後ろで並んで奉迎した。

この日、式部・助丸莞爾が湊川神社に参拝し幣帛を奉納した。

午後2時20分、天皇は騎馬で郵便局を出発し、神戸駅2時27分発の特別列車で京都へ向かわれた。            

「短銃を携帯する郵便脚夫」『セルポート』2014.8.1号

神戸今昔物語(通産第483号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(26)

 
明治8年の神戸(短銃を携帯する郵便脚夫)

 
◆郵便脚夫の短銃  明治8年3月7日、「駅逓寮大阪出張」が「郵便物保護のため神戸郵便局の脚夫に短銃を携帯させる」旨兵庫県に連絡した。駅逓寮大阪出張は現在の日本郵政公社近畿支社にあたる。なぜ、郵便脚夫が短銃携帯なのか。

◆天秤棒で運んだ神戸・有馬間の郵便物  明治、大正頃、神戸・有馬間の郵便物運送は「勉栄組」という団体が請け負っていた。運送員は天秤棒の両端に郵袋をくくりつけ、肩に担いで徒歩で運んでいた。神戸郵便局を午前2時ごろ出発した運送員は、途中、数か所の局に立ち寄り、午後になって有馬に到着する。その日は有馬泊まりである。翌朝未明、有馬を発って神戸に帰る配達員は、途中で、有馬へ向うもう一人の運送員とすれ違う。

「草木も眠る丑三つ時」の神戸出発である。有馬まで34キロ、真っ暗な山道を、提灯の灯りを頼りに一人で行く。途中、狐、狸、猪も出没する。危険なのは、郵便物や為替を狙う人間である。配達員は短銃を具備し自衛することとなった。運送手段は、その後、騎馬便、鉄道便(集配員が護送)、自動車便と、時代とともに変遷した。

◆神戸の郵便の歴史  我が国の郵便制度は、前島密が創設した。明治4年3月1日、東京・大阪間の新式郵便取扱が始まった。

8月14日、神戸郵便役所が浜宇治野町に設置された。12月10日、神戸・大阪間に1日3回の汽船便による郵便物運送が開始された。神戸運上所内に郵便仮役所が開設され、業務を開始した。12月19日、神戸に初めて郵便箱(ポスト)が設置された。

明治5年2月25日、神戸郵便役所は、市場町(現元町通6丁目)に民家を買いあげ移転した(土地37坪)。神戸運上所内の仮役所は廃止された。3月1日、海外郵便を開始した。8月1日、横浜・神戸間に1日2回の郵便運送が始まった。12月1日、大阪から兵庫、神戸、堺へ1日2回の郵便を開始した。

明治6年4月1日、郵便料金の全国均一制が実施された。5月14日、神戸・大阪間の鉄道による郵便物逓送の試行を始めた。8月1日、神戸、兵庫に郵便切手売捌所が6か所設置された。

明治7年2月15日、兵庫県下の郵便線路を開設した。

5月11日の神戸・大阪間鉄道の仮営業開始に伴い、5月14日、1日2回の郵便逓送を開始した。12月31日、慶応3年から神戸に設置されていたアメリカ郵便局撤退した。

明治8年1月1日、「神戸郵便役所」が「神戸郵便局」と改称され、為替事務を開始した。1月5日、横浜、神戸、長崎の郵便局で外国郵便を開始した。3月7日、駅逓寮大阪出張が、兵庫県に「神戸郵便局の脚夫に短銃を携帯させる」旨の内務省通達を送付した。

5月1日、市内栄町6丁目に新局舎が竣工し、駅逓寮出張神戸郵便局と改称した。8月1日、貯金事務を開始した。

参考文献 『百年史 神戸ゆうびんの道順』(昭和49年)、『神戸開港三十年史 乾』(明治31年、復刻版 昭和41年)

2014年7月26日土曜日

公開講座「国際都市神戸の系譜~国際都市神戸の過去・現在・未来~」2014.8.23 於:ユニティ神戸

一昨年より始まった「神戸の魅力再発見」のシリーズ第三回目を行います。
明治の初期、神戸の開港とともに様々な国の方々が、神戸に海外の文化、教育、医療等をもたらし、 全国に先駆けて神戸を新しい街にするのに大きな貢 献をしました。異国文化を神戸っ子は見事に受け入れ、 時代とともに発展させ、現代の国際都市神戸を作り上げてきました。今回はこの神戸の国際性を現在から 過去を振り返ってみようと思います。
No.テーマ名開講日担当講師
(1)国際都市神戸の系譜
~国際都市神戸過去・現在・未来~

8月23日(土)
楠本 利夫
芦屋大学客員教授
(2)国際的視野を育てる外国研究8月30日(土)指昭博 神戸市外国語大学教授
(3)国際都市神戸と華僑・華人9月6日(土)陳 來幸 兵庫県立大学教授
(4)外国人による「万国病院」の始まり9月13日(土)山中昭夫
社会福祉法人 神戸海星会うみのほし理事長
(5)米国のミッショナリーがもたらした女子教育9月20日(土)川越 栄子
神戸女学院大学教授

担当ユニティ加盟大学共同企画
時間14:00~15:30
受講料1回1,000円+消費税 全5回4,000円+消費税
募集定員80名

お申込

お申込はUNITY事務局窓口、又はお電話で。
TEL 078-794-4970
    受付時間
  • 平日 9:00~17:00
  • 土曜 9:00~16:00

加盟大学生は無料で受講できます。