神戸今昔物語(通産第486号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(29)
神戸ホーム創立(明治8年)(2)
◆神戸ホーム 明治6年2月24日、政府は切支丹禁制高札を撤去した。3月31日、米国人女性宣教師ダッドレーとタルカットが神戸に上陸した。2人は、明治8年10月12日、山本通に神戸ホームを創設した。後の神戸女学院である。
◆切支丹弾圧 江戸末期から明治初期にかけての長崎浦上でのキリスト教徒弾圧は各国を激怒させた。明治2年12月18日、大納言岩倉具視は各国公使に「我々はキリスト教自体を排斥しているものではないが、キリスト教の日本への導入を許可できない。信奉を是認すれば、深刻な国内亀裂を招来し我が国を分裂させるだろう。しかし、今ではそれも和らげられたことをお認めいただきたい。従来キシシタンに対する処罰は磔刑であった」(『外国新聞に見る日本』)と説明した。
◆岩倉使節団 明治4年11月12日、政府は岩倉を特命全権大使として欧米に派遣した。目的は、締約国への国書捧呈、条約改正予備交渉、欧米の制度文物の調査である。
明治5年1月25日(1872.3.4)、岩倉は米国グラント大統領に謁見した。
ニューヨークタイムズ(1872.3.29)は、岩倉の政府への影響力を、「岩倉は力を持っていると主張する者もいるが、彼はそのような力を実際は政府内で持っていないか、あるいは、宗教の自由のためにそのような力を行使したくないのか、どちらかであると不本意ながら考えざるを得ない」と書いた。
米国との条約改正交渉を開始しようとした岩倉に、国務長官は天皇の全権委任状が必要と指摘した。滞米中の駐日英国代理公使フランシス・アダムスと、ドイツ公使マックス・ブラントは岩倉を訪れ、片務的最恵国待遇規定等を持ち出し、日米単独交渉を論難した。6月19日(7.24)、岩倉は条約改正交渉打ち切りを米国政府に通告した。
◆各国元首訪問 その後、岩倉は欧州に渡り、英国ヴィクトリア女王(1872.12.5)、フランス皇帝(12.26)、ベルギー国王(1873.2.18)に謁見した。
各国は、岩倉に内地開放とキリスト教解禁を求めた。
岩倉は、切支丹禁制高札は条約改正交渉の妨げになる、と政府に報告した。政府は、明治6年2月24日、高札を撤去した。
続いて、岩倉は、ドイツ国王とビスマルク、ロシア皇帝、デンマーク国王、スエーデン国王、イタリア皇帝、オーストリア皇帝、スイス大統領に謁見し、7月9日、マルセイユから海路帰国の途に就いた。
◆湊川神社参詣 9月9日神戸に到着した岩倉は、10日湊川神社に参拝した。宮司折田年秀は不在であった。折田は日記に「岩倉公参詣之由也」と書いた。
湊川神社は兵庫県内のキリスト教布教監視拠点であった。この日、折田は早朝から教導職の僧侶を招集した会議を主催し、その後、西宮に赴いた。神社に帰ったのは午後5時であった。東京から「米国教師婦人募勤」についての書面が届いていた。冒頭の2人の女性宣教師である。
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