神戸今昔物語(第527号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(70)開港150年へのカウントダウン~第1回神戸市長選挙~
◆第1回神戸市長選挙 明治22年、第1回神戸市長候補者選挙が行われた。当時の制度では、市会が選んだ市長候補者3人を内務大臣に上申し、勅裁を経て市長を決定した。
4月25日の市会議員選挙で36人の議員が誕生した。
◆市長候補者 市長候補者選挙は5月10日に行われることになった。
候補者と目されたのは神田兵右衛門と鳴滝幸恭であった。
神田は兵庫の素封家で温厚な名士であった。
鳴瀧はこのとき神戸区長であった。京都出身の鳴滝は、明治7年兵庫県に来て小学校教員を経て県役人になった。県役人時代、鳴滝は内海忠勝知事の懐刀と目されていた。
兵庫と神戸は湊川が隔てていたため、お互いに交流がなく、文化、風習が異なっていた。市会議員も、兵庫と神戸が一つになった神戸市のイメージを描くことができなかった。
「湊西部」、すなわち、兵庫の議員には神田を推すものが多く、神戸部と葺合部の議員は鳴滝を推した。中間の「湊東部」議員は態度を表明しなかった。神戸部と葺合部の議員は15名、湊西部議員は17名であった。湊東部の議員4名が鍵を握っていた。
◆小寺泰次郎の根回し 神戸部議員の小寺泰次郎が動いた。三田藩出身の小寺は、明治5年に最後の藩主九鬼隆義、白州退蔵らとともに神戸に移住し、生田川付替えで生れた土地を安価で買い占めて巨利を得ていた。相楽園は小寺の元屋敷である。
小寺はまず鳴滝を訪問して意中を確認し、続いて、市会議員懇親会を諏訪山常盤楼で開催した。湊西部議員は全員出席を拒否し、湊東部議員も、打ち合わせミスのため、当日誰も出席しなかった。
誰を選ぶべきか、「傍観者の評論、区々にして、容易に両候補者の勝敗を断言すべからざるの観を呈す」(『神戸開港三十年史』)であった。
温厚な神田は争うつもりはなかった。議員の多数も、市長には鳴滝の「吏才」が必要であることを承知していた。投票日前日には各議員の意向はおおむね決していた。
◆初代市長、市会議長 5月10日午前、市会が開催された。
まず、年長者の神田甚兵衛を仮議長として議長の投票を行った。その結果、神田兵右衛門が議長に選ばれ、中西市蔵が次点であった。
次いで、市長候補者の投票を行った。第1回目投票で鳴滝は30票を得た。第2回目投票で神田が17票を得て、第3回目投票で小寺泰次郎が3票を得た。
市会は市長候補者3名を内務大臣に上申した。5月23日、鳴滝幸恭を市長とする裁可が下りた。
6月21日、東川崎町の元神戸区役所を神戸市役所とし、6月21日に開庁式を行った。
組織は、庶務、衛生、戸籍、税務、出納の5掛で、吏員は、書記27名、付属員30名、使丁27名の計84名であった。
市参事会は、市長鳴瀧幸恭、助役小林市次と、瀧本甚右衛門、小寺泰次郎、中西市蔵、松原良太、有馬市太郎、池永通で組織した。
5月26日午後3時、湊川神社折田年秀宮司は鳴滝市長を表敬訪問した(『折田日記』)。
初代神戸市役所(『神戸の百年』より)
初代神戸市役所(『神戸の百年』より)
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