神戸今昔物語(通産第489号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(32)
神戸ホーム創立(明治8年)(5)
◆神戸市発足 明治22年4月1日、市制町村制が施行され、神戸市が発足した。
この年末の我が国の人口は3990万人である。人口上位10都市は、東京139万人、大阪48万人、京都28万人、名古屋16万人、神戸14万人(全国第5位)、横浜12万人、金沢、仙台、広島が各9万人、徳島6万人であった、明治27年、英和女学校は神戸女学院と改称した。
7月16日、政府は日英通商航海条約を締結し、続いて各国と同内容の条約を締結した。7月25日、日清戦争が勃発した。
明治32年、新条約発効に伴い外国人居留地が日本側に返還された。神戸市は返還に備え外国語に堪能で法律知識を有する法学士の助役1名を増員した。
◆英和女学校移転検討 明治19年頃、英和女学校は移転を検討していた。生徒数が増えたことと、良好な教育環境を確保するためである。
「神戸又新日報」(明治19年2月7日付)に次の記事がでている。
「英和女学校の移転 当港諏訪山なる英和女学校は、今より凡そ十年以前に創立したるものにして、当時同校の発起者は、精々、閑静なる土地を選み、此所こそ人家に程遠ければ、実に、学校の地位に適当ならんとて、(略)取り設けたりし所、其後、同所の追々と開くるに従がひ、終に、同校の裏手に接近して、先年数軒の料理屋建ち並びしか上に、温泉場もあれば、以来、漸く、其料理屋の数を増加し(中略)絲竹管弦の音絶えず同校に聞こゆるを以って、自ずから生徒の勉学上に関係を及ぼすこと少なからず。特に同校は女生徒のみにて、多分は各地方より寄宿なし居るものなれば、(略)他に、最も生徒の教育に適当すべき閑静なる良地を選みて、速かに移転せんと、同校の係員は、兼ねて其土地の捜索をなし居ると云ふ。」少し解説しよう。
諏訪山下の英和女学校は10年以上前に創設された。創設者は、女子寄宿学校にふさわしい閑静な土地を探し、人家から離れた山本通が学校適地と判断して学校を創設した。ところが、後に学校裏手に温泉場が開かれて料理屋が立ち並び三味線の音が学校にまで聞こえてくるようになった。同校はできるだけ早く移転すべく、適当な土地を探している。
◆諏訪山温泉 もともと諏訪山は6村(中宮、花隈、宇治野、北野、二つ茶屋)の共有地であった。明治初め、山麓の「字塩之池」に鉱泉が湧出することが判明した。明治3~4年頃、関戸由義が6村から土地を購入し、明治5~6年頃、諏訪山鉱泉場を開いた。関戸は料亭経営者の前田又吉に土地を賃貸した。前田は旧三田藩主の九鬼隆義から資金を借りて料亭常盤楼を建設し、諏訪山一帯は神戸を代表する料亭街となった(『神戸開港三十年史』)。
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