神戸今昔物語(通産第488号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(31)
神戸ホーム創立(明治8年)(4)
◆神戸ホーム 明治8年10月、米国人女性宣教師E.タルカットとJ.E.ダッドレーが山本通に神戸ホーム(後の神戸女学院)を創設した。キリスト教布教に理解を示していた三田藩旧藩主九鬼隆義と家臣達が神戸ホーム創設を支援した。
このころ、神戸ではアメリカンボード(米国海外伝道団)派遣の医師J.C.ベリーも、生田神社前に施療所「恵済院」を開いて貧しい人達の診療を行っていた。
◆同志社英学校 明治8年11月、新島襄が京都に同志社英学校を創設した。後の同志社大学である。当時、神戸には新島と親交がある米国人牧師達がいた。新島は彼らと連携して、同志社を政・経・理・工・医等のコースをもつ総合大学として神戸に創設しようとした。けれども、アメリカンボードは、神学校程度にしか同意しなかったため、新島は同志社の神戸設立を断念した。
◆英和女学校 明治9年、神戸ホームに女性宣教師V.O.クラークソンが着任した。
明治10年1月、教部省が廃止されキリスト教布教活動への制度的監視は終了した。
2月5日、神戸京都間鉄道開通式が神戸駅で行われた。臨席した明治天皇に在神外交団を代表して米国領事が祝辞を述べた。その10日後、西南戦争が勃発した。政府は弁天浜に兵站本部「運輸局」を設置した。おびただしい数の兵員と物資が完成したばかりの鉄道で神戸駅に連日到着し船で九州の前線に送られていった。折田年秀宮司は、その様子を目の当たりにして故郷薩摩と盟友西郷隆盛に思いを馳せた。折田は複雑な心境を日記に吐露している。
明治12年、2代目校長に就任したクラークソンは、英語と一般教養科目を増やして教科の水準を引き上げて5年制中学校とし、校名を「神戸英和女学校」と改めた。クラークソンの宗教色を抑えた洋風教育方式が、日本の欧化風潮に乗り、ホームの発展につながることになる。クラークソンとそりが合わなかった初代校長のタルカットは、明治13年、岡山の伝道所に移った。
明治15年1月、クラークソンが帰国しタルカットが再び呼び戻された。12月、第1回卒業式が行われ、15歳から27歳までの卒業生12人を送り出した。
明治15年、E.M.ブラウンが第3代院長に就任した。ブラウンは明治31年までの15年間、のちに4代目院長になるS.A.ソールと共に学校の基盤を固めた。
◆鹿鳴館外交が追い風に 明治16年7月、鹿鳴館が完成した。外務卿井上馨は条約改正会議を主催する傍ら、鹿鳴館に各国外交官、商館主等を招いて洋風舞踏会を頻繁に開催した。井上の狙いは、日本が欧米並みの文明国であることを外国側に認識させ、条約改正を実現するためである。
井上の欧化主義は英和女学校の学生拡大に好影響を与えた。明治17年、英和女学校は学生増に対応するため、隣地を購入して校舎を拡張し、明治19年にはさらに校舎新築に着手した。
明治27年、英和女学校は神戸女学院と改称した。
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