神戸今昔物語(通産第490号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(33)
神戸ホーム創立(明治8年)(6) 条約改正と「泰西主義」
◆神戸ホーム 米国人女性宣教師が明治8年に神戸山本通に創設した「神戸ホーム」は、明治12年に校名を英和女学校に変更し、明治27には神戸女学院とした。外務卿井上馨が明治16年から20年にかけて展開した欧化政策は英和女学校への追い風となった。
◆「安政五か国条約」 江戸幕府が1858年に欧米列強と締結したいわゆる「安政五か国条約」は、我が国が「外国領事裁判権」「協定関税」「片務的最恵国待遇」を認めさせられた「不平等条約」であった。
領事裁判権は、我が国に於いて犯罪行為で訴追された外国人の裁判を、当該国の領事が母国の法律に基づいて行う権利である。
協定関税制度は、関税率を貿易相手国との話し合いで決める制度である。この制度では力関係において強い大国の意見が関税率に影響することになる。
最恵国待遇は、条約相手国に対し「最も恩恵的な地位を与えている第三国と同等の待遇」を与えることである。安政五か国条約では、日本側だけに相手国に最恵国待遇付与を認めた片務的な条約である。
◆岩倉使節団 明治政府にとり、条約改正は我が国が近代国家にふさわしい国際的地位を獲得するための喫緊の課題であった。政府は明治4年に岩倉具視を特命全権大使とする使節団を米欧に派遣した。岩倉は、最初の訪問国米国で条約改正交渉を開始しようとしたが、米国側から「天皇の権限委任状がない」と手続き上の不備を指摘された。以後、使節団の目的は西欧の文物視察になった。
◆「泰西主義」 欧米締約国が日本政府と領事裁判権撤廃交渉に入るにあたり出した要求は、日本の法典と裁判所制度を「泰西主義」(Western Principle)に範をとり整備することであった。欧米諸国は異教徒国である日本の裁判制度に強い懸念を持っていたからである。
◆井上馨外務卿 明治12年、井上馨が外務卿に就任した。神戸ホームが英和女学校と改称した年である。
井上は、締約国代表と明治15年1月25日から7月27日まで外務省で21回にわたる条約改正予備会議を開き裁判権回復交渉を行った。井上は、外国側が裁判権回復を認めれば、外国人が日本国内で自由に居住地を選び、自由に営業し、自由に移動すること認めると宣言した。
安政五か国条約では、外国人は開港場の「外国人居留地」に居住することが義務付けられていて、自由に動くことができる行動半径も、居留地から半径10里以内に制限されていた。井上はこの制限を撤廃することを外国側に宣言したのである。
また、井上は日本の裁判所への外国人裁判官の任用と、日本人と外国人裁判官で組織する「日本混合裁判所」の設置を提案した。これに対し、パークス英国公使は、日本裁判権案の具体的説明がなされるまで、態度を保留せざるを得ないと表明し予備会議は挫折した。
明治16年7月、鹿鳴館が完成した。外国の賓客、外交官等を接待するための政府迎賓館である。