2014年7月26日土曜日

横浜駐屯英仏軍(続)(「折田年秀日記」『セルポート』2014.7.21号)


神戸今昔物語(通産第482号)湊川神社物語(第2部)
    「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(25

横浜駐屯英仏軍(続)

◆横浜開港・英仏駐屯軍  明治8年1月27日、英仏公使が外務卿寺島宗徳に「横浜駐屯軍の引き上げ」を通告した。英仏軍はこれに先立ち横浜に12年間駐屯していた。

 安政61859)年62日、横浜は開港した。神戸開港の9年前である。

文久21862821日、東海道沿いの生麦村で、横浜居留地の英国人4名が騎馬で島津久光の隊列に接触し薩摩藩士により殺傷された(「生麦事件」)。

外国側は「自衛のための駐兵」を認めるよう幕府に迫り、文久31863)年518日、幕府は英仏守備兵の横浜駐屯を許可した。

兵員数は年毎に異なるが、艦隊乗組員を含めると最盛期には6,600人に達した。

英陸軍は上海、香港、南アフリカからの砲兵隊、工兵隊、輜重兵等で、海軍は本国からの海兵隊軽歩兵であった。仏陸軍は上海からの「アフリカ軽歩兵」で、海軍は上海とサイゴンからの陸戦隊と海軍歩兵隊であった。駐屯目的は外国人居留地と居留民を守ることであり、日本を守るためではない。

◆日本側と駐屯軍  この駐屯で特筆すべきことは次の諸点である。

1は、外国軍隊の国内駐屯が、幕府全体の意思として正式に承認されたのではなく、一幕閣の責任で専決されたことである。この重大案件は、このとき、京都に滞在していた将軍や老中等の幕政最高責任者の裁可を得ていない。しかも、この案件をめぐる外交交渉が、神奈川奉行という一地方官の担当という形で進行したのである。

2は、基地の兵営や病院の建設費・維持費は日本側の負担であったことである。

3は、基地が、薩英戦争、下関戦争では、戦地への出撃基地になったことである。

4は、駐屯軍と日本側の「軍事交流」があったことである。神奈川奉行配下の兵士が英軍から「銃隊調連」をうけたことや、日英合同の閲兵式もあった。

5は、駐屯兵士の補給を居留地の外国貿易商が取り扱ったことである。軍用食糧は、本国や植民地から保存食品の形で大量に輸送し、不足部分は現地調達した。

兵士達と日本人女性の交流もあった。明治832日、最後に撤退する英仏駐屯軍の将兵計368名(英269、仏99)が、英軍輸送船と仏国郵船に分乗して香港に向かった。離日する兵士が乗船をする間際、埠頭で兵士と日本女性が別れを惜しむ姿は、「イギリスの港から出航する際の情景をそっくり投影したかのようであった」と英軍少佐は書き残している。

6は、駐屯軍の撤退に際し、明治天皇が英仏両国の下士官計12名を謁見し勅語を下賜したことである。横浜町会所で「餞別舞踏会」が開催され、参加者は400名を超えた。陸軍中将西郷従道以下、陸海軍士官3040名が出席し、海軍軍楽隊が舞踏曲を演奏した。

(参考文献)

石塚裕道『明治維新と横浜居留地』(吉川弘文館)。ヒュー・コータッチ/中須賀哲朗訳『維新の港の英人たち』(中央公論社)。大山梓『開市開港の研究』(鳳書房)

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