神戸今昔物語(通産第481号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(24)
横浜駐屯英仏軍
今号は明治8年の横浜の話題である。
◆英仏駐屯軍横浜撤退 明治8年1月27日、英仏公使が外務卿寺島宗徳に、「横浜駐屯軍の引き上げ」を通告した。英仏軍隊は、横浜に12年間駐屯していた。
◆横浜、長崎、箱館開港 幕府が列国と締結した「安政五か国条約」(1858年)に基づき、安政6(1859)年6月2日、横浜(神奈川)、長崎、箱館が開港した。
孝明天皇は開国に反対していた。万延元(1860)年8月18日、朝廷は、「条約破棄又は攘夷実行」を条件に、和宮降嫁を幕府に内達した。
12月5日、米国公使館通訳ヒュースケンが襲撃され死亡した。12月16日、英仏公使は、幕府の外国人保護の不備を非難して横浜に退去した。万延2(1861)年1月21日、幕府は、江戸市中の辻番所に標識を立て、外国人の保護を図った。
◆神戸開港延期交渉団 文久元(1861)年12月23日、幕府は、神戸開港延期交渉特使を欧州に派遣した(「文久遣欧使節団」。特使・竹内保徳)。後に兵庫奉行として神戸開港を外国側に通告することになる柴田剛中も参加した
文久2(1862)5月9日、竹内は英外相ラッセルとの間に、兵庫・新潟開港と江戸・大坂開市の5年間延期を取り決めた(「ロンドン覚書」)。
8月21日、生麦村で島津久光の隊列を侵した英国人を薩摩藩士が殺傷した。
9月21日、朝廷は、勅使三条実美らを江戸に派遣し、幕府に「攘夷勅旨」を伝達させることとした。11月2日、幕府は「攘夷勅旨の遵奉」を決定した。
◆外国艦隊横浜に終結 文久3(1863)年3月26日、オランダ軍艦艦長が、幕府に「非常の際、居留地保護のため武装水兵を横浜に上陸させる」旨通告した。続いて、英仏両国は、「居留地防衛のため自国軍を横浜に駐屯させる」と幕府に通告した。4月上旬、横浜に、英11隻、仏3隻、蘭2隻、米1隻の計17隻の軍艦と、避難用の商船6隻が集結した。
◆慶喜、攘夷期日を天皇に奉答 4月20日、徳川慶喜が、「攘夷期日を5月10日とする」と天皇に奉答した。
5月9日、幕府は各国公使に「横浜、長崎、箱館の閉鎖と外国人の退去」を通告した。5月10日、英仏米普蘭代表が、通告を非難し、居留民の退去を強要するなら自衛行動に出ると伝えた。
◆幕府、英仏軍の横浜駐屯許可 5月18日、幕府は、英仏軍隊の横浜駐屯を正式に許可した。以後、この基地は、薩英戦争(7月2日)、下関戦争、神戸開港式、神戸事件等の際、重要な役割を果たすことになる。独立国日本にとり、屈辱的な外国軍隊の駐屯であった。
◆幕府、横浜鎖港提議 9月14日、幕府は、「横浜鎖港」を米蘭に提議した。鎖港は横浜のみで、長崎、箱舘には言及していない。12月29日、幕府は鎖港協議のため外国奉行を欧州へ派遣したが、目的を達することができなかった。
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