2014年7月26日土曜日

公開講座「国際都市神戸の系譜~国際都市神戸の過去・現在・未来~」2014.8.23 於:ユニティ神戸

一昨年より始まった「神戸の魅力再発見」のシリーズ第三回目を行います。
明治の初期、神戸の開港とともに様々な国の方々が、神戸に海外の文化、教育、医療等をもたらし、 全国に先駆けて神戸を新しい街にするのに大きな貢 献をしました。異国文化を神戸っ子は見事に受け入れ、 時代とともに発展させ、現代の国際都市神戸を作り上げてきました。今回はこの神戸の国際性を現在から 過去を振り返ってみようと思います。
No.テーマ名開講日担当講師
(1)国際都市神戸の系譜
~国際都市神戸過去・現在・未来~

8月23日(土)
楠本 利夫
芦屋大学客員教授
(2)国際的視野を育てる外国研究8月30日(土)指昭博 神戸市外国語大学教授
(3)国際都市神戸と華僑・華人9月6日(土)陳 來幸 兵庫県立大学教授
(4)外国人による「万国病院」の始まり9月13日(土)山中昭夫
社会福祉法人 神戸海星会うみのほし理事長
(5)米国のミッショナリーがもたらした女子教育9月20日(土)川越 栄子
神戸女学院大学教授

担当ユニティ加盟大学共同企画
時間14:00~15:30
受講料1回1,000円+消費税 全5回4,000円+消費税
募集定員80名

お申込

お申込はUNITY事務局窓口、又はお電話で。
TEL 078-794-4970
    受付時間
  • 平日 9:00~17:00
  • 土曜 9:00~16:00

加盟大学生は無料で受講できます。



横浜駐屯英仏軍(続)(「折田年秀日記」『セルポート』2014.7.21号)


神戸今昔物語(通産第482号)湊川神社物語(第2部)
    「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(25

横浜駐屯英仏軍(続)

◆横浜開港・英仏駐屯軍  明治8年1月27日、英仏公使が外務卿寺島宗徳に「横浜駐屯軍の引き上げ」を通告した。英仏軍はこれに先立ち横浜に12年間駐屯していた。

 安政61859)年62日、横浜は開港した。神戸開港の9年前である。

文久21862821日、東海道沿いの生麦村で、横浜居留地の英国人4名が騎馬で島津久光の隊列に接触し薩摩藩士により殺傷された(「生麦事件」)。

外国側は「自衛のための駐兵」を認めるよう幕府に迫り、文久31863)年518日、幕府は英仏守備兵の横浜駐屯を許可した。

兵員数は年毎に異なるが、艦隊乗組員を含めると最盛期には6,600人に達した。

英陸軍は上海、香港、南アフリカからの砲兵隊、工兵隊、輜重兵等で、海軍は本国からの海兵隊軽歩兵であった。仏陸軍は上海からの「アフリカ軽歩兵」で、海軍は上海とサイゴンからの陸戦隊と海軍歩兵隊であった。駐屯目的は外国人居留地と居留民を守ることであり、日本を守るためではない。

◆日本側と駐屯軍  この駐屯で特筆すべきことは次の諸点である。

1は、外国軍隊の国内駐屯が、幕府全体の意思として正式に承認されたのではなく、一幕閣の責任で専決されたことである。この重大案件は、このとき、京都に滞在していた将軍や老中等の幕政最高責任者の裁可を得ていない。しかも、この案件をめぐる外交交渉が、神奈川奉行という一地方官の担当という形で進行したのである。

2は、基地の兵営や病院の建設費・維持費は日本側の負担であったことである。

3は、基地が、薩英戦争、下関戦争では、戦地への出撃基地になったことである。

4は、駐屯軍と日本側の「軍事交流」があったことである。神奈川奉行配下の兵士が英軍から「銃隊調連」をうけたことや、日英合同の閲兵式もあった。

5は、駐屯兵士の補給を居留地の外国貿易商が取り扱ったことである。軍用食糧は、本国や植民地から保存食品の形で大量に輸送し、不足部分は現地調達した。

兵士達と日本人女性の交流もあった。明治832日、最後に撤退する英仏駐屯軍の将兵計368名(英269、仏99)が、英軍輸送船と仏国郵船に分乗して香港に向かった。離日する兵士が乗船をする間際、埠頭で兵士と日本女性が別れを惜しむ姿は、「イギリスの港から出航する際の情景をそっくり投影したかのようであった」と英軍少佐は書き残している。

6は、駐屯軍の撤退に際し、明治天皇が英仏両国の下士官計12名を謁見し勅語を下賜したことである。横浜町会所で「餞別舞踏会」が開催され、参加者は400名を超えた。陸軍中将西郷従道以下、陸海軍士官3040名が出席し、海軍軍楽隊が舞踏曲を演奏した。

(参考文献)

石塚裕道『明治維新と横浜居留地』(吉川弘文館)。ヒュー・コータッチ/中須賀哲朗訳『維新の港の英人たち』(中央公論社)。大山梓『開市開港の研究』(鳳書房)

横浜駐屯英仏軍(「折田年秀日記」『セルポート』2014.7.11号)


神戸今昔物語(通産第481号)湊川神社物語(第2部)
     「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(24

横浜駐屯英仏軍

今号は明治8年の横浜の話題である。

◆英仏駐屯軍横浜撤退  明治8年1月27日、英仏公使が外務卿寺島宗徳に、「横浜駐屯軍の引き上げ」を通告した。英仏軍隊は、横浜に12年間駐屯していた。

◆横浜、長崎、箱館開港  幕府が列国と締結した「安政五か国条約」(1858年)に基づき、安政61859)年62日、横浜(神奈川)、長崎、箱館が開港した。

孝明天皇は開国に反対していた。万延元(1860)年818日、朝廷は、「条約破棄又は攘夷実行」を条件に、和宮降嫁を幕府に内達した。

 125日、米国公使館通訳ヒュースケンが襲撃され死亡した。1216日、英仏公使は、幕府の外国人保護の不備を非難して横浜に退去した。万延21861)年121日、幕府は、江戸市中の辻番所に標識を立て、外国人の保護を図った。

◆神戸開港延期交渉団  文久元(1861)年1223日、幕府は、神戸開港延期交渉特使を欧州に派遣した(「文久遣欧使節団」。特使・竹内保徳)。後に兵庫奉行として神戸開港を外国側に通告することになる柴田剛中も参加した

文久2186259日、竹内は英外相ラッセルとの間に、兵庫・新潟開港と江戸・大坂開市の5年間延期を取り決めた(「ロンドン覚書」)。

 821日、生麦村で島津久光の隊列を侵した英国人を薩摩藩士が殺傷した。

 921日、朝廷は、勅使三条実美ら江戸に派遣し、幕府に「攘夷勅旨」を伝達させることとした。112日、幕府は「攘夷勅旨の遵奉」を決定した。

◆外国艦隊横浜に終結  文久31863)年326日、オランダ軍艦艦長が、幕府に「非常の際、居留地保護のため武装水兵を横浜に上陸させる」旨通告した。続いて、英仏両国は、「居留地防衛のため自国軍を横浜に駐屯させる」と幕府に通告した。4月上旬、横浜に、英11隻、仏3隻、蘭2隻、米1隻の計17隻の軍艦と、避難用の商船6隻が集結した。

◆慶喜、攘夷期日を天皇に奉答  4月20日、徳川慶喜が、「攘夷期日を510日とする」と天皇に奉答した。

59日、幕府は各国公使に「横浜、長崎、箱館の閉鎖と外国人の退去」を通告した。510日、英仏米普蘭代表が、通告を非難し、居留民の退去を強要するなら自衛行動に出ると伝えた。

◆幕府、英仏軍の横浜駐屯許可  518日、幕府は、英仏軍隊の横浜駐屯を正式に許可した。以後、この基地は、薩英戦争(72日)、下関戦争、神戸開港式、神戸事件等の際、重要な役割を果たすことになる。独立国日本にとり、屈辱的な外国軍隊の駐屯であった。

◆幕府、横浜鎖港提議  914日、幕府は、「横浜鎖港」を米蘭に提議した。鎖港は横浜のみで、長崎、箱舘には言及していない。1229日、幕府は鎖港協議のため外国奉行を欧州へ派遣したが、目的を達することができなかった。

明治8年の神戸(「折田年秀日記『セルポート』2014.7.1号



神戸今昔物語(通産第479号)湊川神社物語(第2部)
      「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(22

折田の湊川神社赴任(7)~明治年の神戸~

◆折田年秀の赴任  明治6815日、折田は湊川神社に着任した。

思えば、故郷鹿児島で、「神社を拝礼し、金飾刀備前法光ノ短刀を奉納して、開運之祈念ヲ凝ラシ」「浮沈之決着」(『折田年秀日記』)をつける決心で、三邦丸に乗り込んだのは、5か月前の313日であった。折田は、東京で薩摩出身者の支援を受け、渾身の猟官運動の結果、湊川神社初代宮司のポストを勝ち取った。

◆明治7年の神戸

1月:8日 、前年11月に竣工した「元町海岸間新道」を「栄町」と命名。

17日、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平、板垣退助等8人が「民選議員設立建白書」提出。

元町1丁目大火。

2月:1日、佐賀の乱(31日、鎮圧、413日、江藤新平処刑)。

6日、閣議、台湾征討を決定(419日、政府、台湾征討中止を決定。54日、大久保利通、大隈重信が長崎で西郷従道と会見、西郷の強硬意見を受け入れ、征討実施を決定。517日、西郷、長崎出発、22日台湾上陸。728日、政府、三菱商会に、輸入船13隻による台湾への征討関連運航業務を委託)。

この月、湊川堤防が決壊し大被害。「清国人ヲ、寧波・広東・福建の三組ニ分チ、取締ニ弁ズ」(『神戸市史年表』)。

3月:マーシャル港長が立案した「兵庫港則」完成。

4月:8日、神戸・兵庫二区に区役所設置。

この月、居留地遊園の名称を「内外人民偕楽遊園」と定める。

5月:11日、神戸大阪間鉄道(32.7km)開業。工事は、明治31024日の石屋川隧道から開始し、36か月かけて完成。ちなみに、新橋・横浜間の鉄道建設工期は、26か月(明治33月起工、明治59月完成)。石屋川、住吉川、芦屋川では我が国鉄道初の隧道工事。18往復。神戸始発午前655分、大阪着85分、所用時間1時間10分。停車場は、神戸、三ノ宮、西ノ宮(仮停車場)。611日、住吉、神崎(尼崎)停車場開設(『神戸駅130年史』)。

14日、鉄道開通に伴い、大阪神戸間12回の郵便逓送開始(『百年史 ゆうびんの道順』)

この月、神戸駅周辺道路工事補助を内務省に要請。

6月:湊川堤防、暴風雨のため再び決壊。西郷隆盛、鹿児島に私学校設立。

7月:11日、新川開墾工事着手。米国人ウオルス、製紙工場敷地借用出願。

8月:神戸海岸の石垣が怒涛のため再び決壊。坂本分営に砲兵1小隊駐屯。

9月:22日、日本国電信条例布告(電信事業の政府掌握決定)有馬道改修工事着手。

25日、『日新真事実』に、福沢諭吉『学問のすすめ』7編への批判投書、いわゆる「楠公権助論争」が起こる。諭吉は、同書で「赤穂不義士」論も提起し、物議を醸す。

10月:湊川修復工事竣工。有馬道改修工事完成。居留地遊園地開設、維持費は外国人の負担と決定。

11月:兵庫・神戸で初めて徴兵検査。

この年:相生橋架橋。熊内村銅鉱試掘の出願。就学児童2,800人を超す。外国人経営ガス会社事業開始。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治7年の神戸(「折田年秀日記」『セルポート』2014.6.21号)


神戸今昔物語(通産第479号)湊川神社物語(第2部)
     「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(22

 折田の湊川神社赴任(7)~明治7年の神戸~

 ◆折田年秀の赴任  明治6815日、折田は湊川神社に着任した。

思えば、故郷鹿児島で、「神社を拝礼し、金飾刀備前法光ノ短刀を奉納して、開運之祈念ヲ凝ラシ」「浮沈之決着」(『折田年秀日記』)をつける決心で、三邦丸に乗り込んだのは、5か月前の313日であった。折田は、東京で薩摩出身者の支援を受け、渾身の猟官運動の結果、湊川神社初代宮司のポストを勝ち取った。

◆明治7年の神戸

1月:8日 、前年11月に竣工した「元町海岸間新道」を「栄町」と命名。
 17日、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平、板垣退助等8人が「民選議員設立建白書」提出。元町1丁目大火。

2月:1日、佐賀の乱(31日、鎮圧、413日、江藤新平処刑)。

6日、閣議、台湾征討を決定(419日、政府、台湾征討中止を決定。54日、大久保利通、大隈重信が長崎で西郷従道と会見、西郷の強硬意見を受け入れ、征討実施を決定。517日、西郷、長崎出発、22日台湾上陸。728日、政府、三菱商会に、輸入船13隻による台湾への征討関連運航業務を委託)。

この月、湊川堤防が決壊し大被害。「清国人ヲ、寧波・広東・福建の三組ニ分チ、取締ニ弁ズ」(『神戸市史年表』)。

3月:マーシャル港長が立案した「兵庫港則」完成。

4月:8日、神戸・兵庫二区に区役所設置。

この月、居留地遊園の名称を「内外人民偕楽遊園」と定める。

5月:11日、神戸大阪間鉄道(32.7km)開業。工事は、明治31024日の石屋川隧道から開始し、36か月かけて完成。ちなみに、新橋・横浜間の鉄道建設工期は、26か月(明治33月起工、明治59月完成)。石屋川、住吉川、芦屋川では我が国鉄道初の隧道工事。18往復。神戸始発午前655分、大阪着85分、所用時間1時間10分。停車場は、神戸、三ノ宮、西ノ宮(仮停車場)。611日、住吉、神崎(尼崎)停車場開設(『神戸駅130年史』)。

14日、鉄道開通に伴い、大阪神戸間12回の郵便逓送開始(『百年史 ゆうびんの道順』)

この月、神戸駅周辺道路工事補助を内務省に要請。

6月:湊川堤防、暴風雨のため再び決壊。西郷隆盛、鹿児島に私学校設立。

7月:11日、新川開墾工事着手。米国人ウオルス、製紙工場敷地借用出願。

8月:神戸海岸の石垣が怒涛のため再び決壊。坂本分営に砲兵1小隊駐屯。

9月:22日、日本国電信条例布告(電信事業の政府掌握決定)有馬道改修工事着手。

25日、『日新真事実』に、福沢諭吉『学問のすすめ』7編への批判投書、いわゆる「楠公権助論争」が起こる。諭吉は、同書で「赤穂不義士」論も提起し、物議を醸す。

10月:湊川修復工事竣工。有馬道改修工事完成。居留地遊園地開設、維持費は外国人の負担と決定。

11月:兵庫・神戸で初めて徴兵検査。

この年:相生橋架橋。熊内村銅鉱試掘の出願。就学児童2,800人を超す。外国人経営ガス会社事業開始。