神戸今昔物語(通産第469号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(12)
湊川神社初代宮司の謎(2)
◆「折田年秀日記」 元薩摩藩士折田年秀(要蔵)が、湊川神社初代宮司の辞令を受け取るまでを「折田日記」から追っている。「日記」には、明治の政官財界の超有名人が頻繁に登場する。
宮司を狙う折田にライバルが現れた。兵庫県令神田孝平が、富岡鉄斎を宮司に推薦したのである。折田は、「浮沈之決着」をつけるため上京を決意し、明治6年3月13日、三邦丸で鹿児島を出発し、大阪、京都、神戸を経て、3月19日に東京に着いた。折田は、同郷の松方正義(後、総理)宅に止宿して、連日、人脈を頼って関係先に自身の宮司就任への支援を働きかけた。松方は、このとき大蔵省の租税権頭をしていた。
◆大蔵省出仕内示 4月6日、折田は松方から「大蔵省八等出仕」に内定した旨の連絡を受けた。当時の官職は、卿(大臣)、大輔(次官)、小輔、大丞(局長級)、少丞の下に、六等出仕から十五等出仕までの階級があった。八等出仕は決して低い官職ではない。
それでも折田は「八等出仕」に満足できず、同郷の教部大丞・三島通庸(後、警視総監)を訪ねて談判した。教部省は、神道に基礎を置く国民教化政策を所管する役所である。三島も、「人事は内定済み」と伝えた。折田は参議の西郷隆盛に相談した。参議は、左大臣、右大臣に次ぐ、卿(大臣)より上位の重職である。左大臣、右大臣には実質的な権限が殆どなかったので、参議は「集団性の政府首班」と位置付けられていた。西郷の意見は「まず八等出仕を受け、後のことはそれから考えればどうか」であった。
◆八等出仕辞令 4月9日午前9時、折田は大蔵省で辞令を受けた。
「折田要蔵
八等出仕申附候事
明治六年四月八日 大蔵省」
折田の役人生活が始まった。この日、折田は新白金町備中屋に宿をとり、11日に浜松町1丁目に居を移した。
14日 折田は大蔵省から月給50円を受け取った。明治7年の「巡査の初任給」は4円(『値段史年表』朝日新聞社)である。折田の給料は決して低くない。
◆渋沢栄一に協力依頼 4月26日、折田は大蔵大丞・渋沢栄一にを訪ね、「何分八等官ニてハ堪難」(ママ)として、「楠公祠官拝命」への協力を依頼した。大丞は、省内ナンバー4である。おりしも、渋沢は、大蔵大輔(次官)井上馨と「財政改革意見」で意見衝突していた。5月4日、井上も渋沢も共に大蔵省を退官した。
武蔵国出身の渋沢は、幕末に一橋慶喜の家臣の平岡円四郎の推挙で慶喜に仕え、慶喜から重用されていた。渋沢は、後に、文久4(1864)年に折田が島津久光に随行して慶喜ら幕閣に「摂海防衛」を建言したときの、折田の弁舌と博識ぶりについて回顧している。渋沢は折田に一目置いていた。
渋沢は退官後、実業界に入り、わが国に近代的な銀行制度と株式会社制度を導入し、実業学校(商法講習所、後の一橋大学)を起こし、「明治財界の指導者」「実業王」と称された。
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