2014年3月3日月曜日

湊川神社初代宮司の謎 「折田年秀日記」(『セルポート』2014.2.21号)


神戸今昔物語(通産第467号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(11
 

湊川神社初代宮司の謎 

◆折田の上京  明治6313日、元薩摩藩士折田年秀(通称、要三)は、「浮沈之決着」(「折田日記」)を期して上京した。途中、折田は湊川神社に参詣した。神社は前年5月に創建されていた。

折田の上京目的は、折田自身が湊川神社初代宮司に就任できるよう、関係先に働きかけることであった。鹿児島を出発する段階では、折田が宮司に発令されるかどうか不明であった。419日に東京に着いた折田は、松方正義の家に止宿し、多くの知人たちを訪問して協力を依頼した。折田は、東京到着から52日の宮司発令を受け取るまで、不安な心中を日記に吐露している。

◆折田の建言と兵庫裁判所役人の請願  文久41864)年2月、折田は島津久光を通じて、護良親王、楠木正成を祀る神社の創建を朝廷に建言した。朝廷は建言を承認したが、その後、久光が帰郷したため、神社創建は立ち消えになった。4年後の明治元(1868)年3月、兵庫裁判所(後、兵庫県庁)役人6人が、楠社創建を、総督東久世通禧を通じて政府に請願した。請願書を書いたのは薩摩出身の岩下方平である。

◆明治政府と湊川神社  後醍醐天皇に殉じた楠木正成を祀る神社は、天皇への忠誠を誓わせるための象徴的施設である。戊辰戦争勃発で財政事情が厳しかったけれども、政府は神社創建に1千円を下賜した。明治25月、戊辰戦争が終結した。政府は下賜金を3千円に増額し神社創建を兵庫県に一任した。

建設費は、兵庫県が寄付を募り調達した。全国から続々と現金、現物で寄付が寄せられ、寄付総額は24千円に達した。政府の下賜金は手つかずのまま残った。土地は住民が勤労奉仕で、湊川から土砂を運び田圃に投入して造成した。湊川神社のために「別格官幣社」という社格が作られ、明治5525日、勅使四辻公賀が天皇下賜の幣帛を奉納し、神社創建式典が行われた。

◆宮司発令日のなぞ  初代宮司を狙う折田に強敵が現れた。兵庫県令(知事)神田孝平(たかひら)が、儒学者で文人画家の富岡鉄斎を宮司に推薦したのである。兵庫県は、政府から委任されて湊川神社を創建した実績がある。神田県令はあらかじめ富岡の内諾を取り付けた上で政府に推薦した。

宮司人事は難航した。

 明治6228日付で、「鹿児島県士族折田年秀」が湊川神社宮司に発令され、権宮司も同日付で宇都宮眞名介が発令された(『湊川神社六十年史 資料篇』)。発令日は『神戸開港三十年史』では227日となっている。「折田日記」では、折田が52日午前10時に教部省に出頭し、同日付の辞令を受け取ったと書いている。なぜ、発令日が食い違っているのか。

 筆者は次のように考えている。折田は明治6228日付で宮司に発令されたが、その後、何らかの理由で発令が取り消された。神田県令が富岡鉄斎を宮司に推薦したためである。発令を取り消された折田は、急きょ、鹿児島を出発し上京した。折田は、東京で薩摩藩出身者のコネを通じて各方面に自身の宮司就任を働きかけ、その結果、52日に折田が初代宮司に発令されたのである。

1 件のコメント:

  1. 岩下方平と富岡鉄斎は仲が良く、京都の岩下宅に良く鉄斎が立ち寄ってました。明治5年の明治天皇鹿児島行幸に鉄斎が供奉したのは同じく供奉する方平に勧められたからです。

    岩下方平が他の薩摩藩士らと共に請願書を書いた背景と、方平が鉄斎と友人だった事を踏まえると宮司人事は興味深いですね。折田と鉄斎、方平は鉄斎から知らされていた可能性も否定できませんし、同じ藩士を勧めるか、友人を勧めるか迷ったかもしれません。

    湊川神社ではありませんが、京都の下賀茂神社宮司人事にも方平は裏で動いており、大久保利通義兄の新納立夫を宮司に勧めるよう働きかける手紙を重野安繹(薩英戦争和平交渉時の同僚)に送った手紙があります。最近入手しました。

    私は方平と共に請願書を書いた岩下方美(二人は従兄弟と言い伝えられてます)の直系ですが、面白い事に東久世通禧ご子孫とは同じ都内多摩エリアに住んでおり一昨年お会いした事があります。

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