神戸今昔物語(通産第471号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(14)
折田への切支丹布教活動監視命令
◆湊川神社宮司拝命 折田年秀が宮司に発令されるまでの経緯を折田の日記から紹介している。
明治6年5月2日、折田は念願の湊川神社初代宮司を拝命した。折田の執念ともいえる猟官運動の成果である。思えば折田が故郷の神社に備前法光の短刀を奉納して願をかけ、「浮沈の決着」のため鹿児島を船で発ったのは3月13日であった。
5月9日、折田は宮司仕官活動で世話になった渋沢栄一に「細蕉布壱巻」を贈った。渋沢は返礼として折田に「秋田八丈壱反」を贈った
◆「湊川神社遥拝所」創建募金 5月12日、折田は教部省に「湊川神社遥拝祠壇ヲ構営スル募金ノ記」を提出した。東京に「湊川神社遥拝所」創建するための募金趣意書である。「有志ノ諸君子同心協力シテ、資財ノ多寡ヲ論セス、各位の醸金ヲ以テ、此祠ノ全ク落成セン」と折田は趣意書に書いている。
5月15日、折田は「兵庫県出張」(東京事務所)に滞留届を提出した。「私事、今般、教部省御用之儀ニ付、拝命後、滞留罷在候付、此段及御届候也、明治六年五月十四日 湊川神社宮司兼大講義折田年秀 兵庫県出張御中」。
6月19日、折田が、宮司発令直後にしたためて教部省に提出していた「湊川神社神官への告諭文」が承認された旨、教部省から連絡があった。
◆給料と赴任旅費 6月27日、兵庫県出張所職員が、折田に6月中の月給12円を届けた。7月22日、折田は兵庫県出張所で赴任旅費45円と7月分の月給12円を受け取った。明治6年の巡査初任給が4円(『値段史年表』朝日新聞社)であるので、折田の月給は初任巡査の3倍である。
◆切支丹布教活動監視 7月13日、折田は大教院で教部大輔から、神戸における切支丹布教活動を監視するよう命令を受けた。「兵庫神戸には外国人も多く、切支丹の布教活動が盛んであるが、兵庫県令の神田孝平(かんだたかひら)は洋学家であるので布教活動の監視は期待できない。ついては、折田が布教活動を監視して詳しく報告してほしい」との内容である。
折田が、この命令を忠実に守り、明治7年1月に元三田藩主九鬼隆義夫妻等の日曜学校参加状況を教部省に詳しく報告したことは先に紹介した。切支丹禁教の高札は、欧州訪問中の岩倉具視からの要請で、明治6年2月に撤去されていたが、政府はまだ布教活動に神経をとがらせていた。教部省は洋学者である神田県令にも不信感を持っていた。
◆兵庫県令神田孝平 神田は、外国文化の紹介、啓もうに努めた開明派県令である。幕府の「蕃書調所」(洋学教育・研究施設。後に「開成所」と改称)の教授をしていた神田は、明治元年3月に頭取に就任した。神田は維新政府から招かれて、政治経済調査、地租改正建議など大きな功績を挙げた。ちなみに、福沢諭吉も神田と同じ時期に維新政府から招かれたが、福沢は官途を断り言論人の道を選んでいる
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