神戸今昔物語(通産第470号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(13)
湊川神社初代宮司の謎(3)
◆朗報 4月9日、折田は大蔵省八等出仕の辞令を受けた。折田は日記に具体的な仕事の内容を書いていないが、宿直を伴う仕事であった。
4月27日、宿直明けの折田は、「今日ヨリ服薬ス、神経に馴なり」と書いている。どのような薬かは不明であるが、「神経に馴なり」とあるので精神安定剤の可能性もある。
4月29日、大蔵大丞渋沢栄一から折田に朗報が入った。折田が教部省へ移籍することになったとの情報である。折田は小躍りして喜んだ。「是ニテ、大蔵方、手切レト相成候事」(『折田日記』)。
4月30日、折田に大蔵大丞名で「2日後の午前10時に、礼服を着用して教部省へ出頭せよ」との書状が届いた。
◆宮司発令 5月2日午前10時、折田は正装して教部省に出頭し宮司の辞令を受け取った。
「五月二日、晴、
一、午前第十字、教部省江出頭之處、黒田教小輔ヨリ、
大蔵八等出仕 折田年秀
任湊川神社宮司兼補大講義、
教部省大丞従五位三島通庸奉
明治六年五月二日
右之通拝命す」
このとき、折田は48歳だった。
◆神田県令訪問 5月5日、折田は、駿河臺に兵庫県令神田孝平を訪ねたが、あいにく神田は留守であった。折田は兵庫県の出張所(「兵庫県出張」(『折田日記』))へ行き、神田と対面した。何を話したのか、折田は書き残していない。
◆発令まで 前々号で折田の宮司発令日を、2月と5月の2説があると指摘した。日付順に整理してみよう。
明治6年2月28日:折田に「湊川神社宮司」辞令(『湊川神社六十年史 資料篇』(166頁)。『神戸開港三十年史
乾』(280頁)では、発令日は2月27日)。
その後、何らかの理由で辞令が撤回された。筆者は、神田孝平が富岡鉄斎を宮司に推薦したため、教部省がいったん辞令を撤回したと考えている。政府が神社創建を兵庫県に一任し、実際に神社を創建したのは兵庫県であるので、県令には初代宮司についてそれなりの発言権があったのである。
3月14日:折田、「浮沈の決着」のため、三邦丸で鹿児島出発(『折田日記』)。辞令撤回に憤慨した折田が、辞令復活のため、急きょ上京した。
3月19日:折田、東京着。参議西郷隆盛、大蔵大丞渋沢栄一、租税権頭松方正義、教部大丞三島通庸等に協力要請(『折田日記』)。
4月9日:折田に「大蔵省八等出仕」辞令(『折田日記』)。
5月2日:折田に「湊川神社宮司」辞令(『折田日記』。『湊川神社史 鎮座篇』(119頁)では 「4月28日就任」)。
折田の執念と行動力で勝ち取った湊川神社宮司ポストであった。