内地雑居の暁(20) 「掃除いらず」
◆「掃除いらず」 カットでは、洋装の婦人のロングドレスの裾が床に垂れているため、掃除夫が「掃除いらず」と頭を掻いている。2年後に控えた「内地雑居」で、女性の洋装が増えればこうなるであろうと予測したのである。
◆明治初期女性の洋装 わが国女性の洋装の嚆矢は、岩倉使節団に参加した女性たちである。明治4年11月12日、使節団(48名)は米国船アメリカ号で横浜を出港した。明治5年1月15日にサンフランシスコに到着したとき、津田梅子、永井重子、山川捨松ら5人の女性たちの和服姿が現地の人たちから珍しがられた。2月25日にシカゴに到着したとき、5人は洋服姿であった。帰国後、津田は「女子英学塾」(後の津田塾大学)を創設し、永井はピアノ教師先駆者、山川は大山巌の妻となった。
男性の洋装は軍服から広まった。女性の洋装は男性に比べ遅れていた。社会進出する女性は少なかったため、一部の女学校の制服を除けば、洋装は一般化するにはいたらなかった。
◆公式礼装公達 明治13年12月、女性の公式礼装についての公達が出され、明治14年の新年朝拝には、「勅任官は夫人同伴」が認められることになった。明治17年9月17日付の内達で、勅任官、奏任官の制服を、礼服、通常礼服、通常服の3種に分け、「西洋服装ノ儀ハ時々達スヘシ」とした。同年11月の内達には「場合ニヨリ西洋服装相用ヒ苦シカラス」とある。
明治19年6月23日、宮内大臣は「婦人服制之儀、先般及内達置候処自今 皇后宮ニ於テモ場合ニヨリ西洋服装御用ヰ相成ニ付、皇族大臣以下各夫人朝儀ヲ始メ礼式相当当西洋服装随意相用事」と内達した。
明治20年、昭憲皇后は思召書「婦女服制のことについて」で、洋服が日本女性の昔の衣服に似ていて、立っておこなう儀式に適し、動作も便利であるとして洋服を勧め、洋装化に際しては国産を使うことを推奨した(尾中明代「黎明期の洋装とミシンについて」『東京家政大学研究紀要)。
◆鹿鳴館時代と婦人の洋装 鹿鳴館が落成した明治16年から明治20年までが「鹿鳴館時代」といわれている。
幕府が列強と締結した不平等条約(「安政五か国条約」)を改正するため、井上薫外務卿(明治18年の内閣制創設で外相)が、明治15年に「条約改正予備会議」(21回)を開き、明治19年には井上が、「条約改正会議」(27回)を開いた。
外交交渉に合わせて、井上は、日本が欧米並みの文明国であることを外国側に示すため、鹿鳴館において欧風舞踏会を盛んに開いた。舞踏会に参加する女性たちは洋装であった。
◆「内地雑居」と婦人の洋装 明治32年7月、新条約の発効で外国人も国内どこにでも住むことができるようになった。内地雑居で、女性の洋装が徐々に普及し始めた。それでも、洋装はごく限られた上流階層の女性だけであり、ほとんどの女性は、第2次大戦が終わるまで、和服を着用することが多かった。
0 件のコメント:
コメントを投稿