2013年5月21日火曜日

内地雑居の暁 「一生日陰住ひの人間」「神戸又新日報」

『セルポート』2013521日号(連載通算第443号)「神戸今昔物語」
                   内地雑居の暁(7) 「一生日陰住ひの人間」

◆神戸「雑居地」  神戸開港当日、外国人居留地はまだ工事中であった。条約勅許が遅れたため、着工できなかったからである。条約では、外国人は居留地内に住むことが義務付けられていた。
 工事中の居留地には住むことができない。慶応433日、外国人は、居留地外への居住を認めてほしい、と兵庫県に陳情した。維新政府はそれを認め、伊藤俊介知事名の書簡(37日付)で、各国領事宛に通知した。雑居地は、生田川、宇治川、海岸、山麓に挟まれた区域のうち、外国人居留地を除く部分である。神戸では、明治32年の改正条約施行を待つまでもなく、開港直後から外国人との「雑居」が認められていたのである。

「一生日陰住ひの人間」 明治30年、「神戸又新日報」は、内地雑居への住民の懸念を風刺画で連載した。カットの「一生日陰住ひの人間」は、「内地雑居」で自宅の両隣に外国人が高い建物を建てたため、自分の家が一日中日陰になっている人である。当時、住民は、自宅の隣に、居留地の商館、教会、ホテルのような高い建物が建つことを心配していたのである。

◆「外人一大旅館を建設せんとす」 「当港居留地英十四番館リテル氏は、二三の同国人と謀り、今度、当港雑居地区域内に一大旅館を建設する由にて、諏訪山山麓なる九鬼隆義氏の所有地に千坪を借入たりといへり」(「神戸又新日報」明治22615日)。
 英国人が諏訪山山麓に大ホテルを建設するというのである。
 居留地14番は、現在の市立博物館の南西端部分の区画であり、リテル氏とは、リネル商会(H.E.Rynel & co.)代表のリネル氏であろう。リネル商会は、明治38年には「洋酒、毛織物、鉄類他輸入代理業」(『神戸港』)を扱っていた。リネル氏はポルトガルの名誉領事をしていたこともある(『日本絵入商人録』)。

◆トアホテル  記事中の「一大旅館」が実現したかどうかは確認できていない。諏訪山山麓のホテルといえばトアホテルを思い浮かべる。トアホテルは、イギリス、ドイツ、アメリカ、フランスの共同出資で設立された。
 明治41718日の開業式典で、英国領事H.ボナーが挨拶をした。4か国共同出資のホテルの開業式の挨拶を英国領事が代表してした理由は、英国人の出資比率が高かったためである(弓倉恒男『トアホテル物語』)。
 当日付のジャパンクロニクル紙は、「神戸の最新ホテル」の見出しで、「トアホテルは、神戸の山手、高く聳え立ち、屋根と塔屋の赤い瓦が直ぐ後ろの松の緑と効果的なコントラストをなして、数マイル四方、特に海から際立って目につくランドマークである。(略)ほんの1年半前には、この敷地に、個人の大邸宅が建っていた(略)。スエズの東此の方、最高級のホテルにランクされる美しい建物が建てられた」(上掲書)と絶賛している。トアホテルは、戦災は免れたが、昭和25422日、失火により焼失した。

2013年5月10日金曜日

論文 楠本利夫 「湊川神社神戸創建の系譜~楠木正成を祀る神社はなぜ神戸に創建されたか~」


こんな論文を発表しました。
 
 「湊川神社神戸創建の系譜~楠木正成を祀る神社はなぜ神戸に創建されたか~」を発表しました。
 掲載誌『神戸外国人居留地研究会年報・居留地の窓から』(第8号、2013.4.20)は、神戸市内図書館、神戸市文書館でご覧いただけます。また、市内主要書店でもお求めいただけます。

 (要旨)
1. 楠木正成を主祭神とする湊川神社は、明治5年、神戸に創建された。神戸市民は湊川神社を「なんこうさん」と親しく呼び、誇りに思っている。
2. 実は、朝廷は、維新直前に、「正成を祀る神社の京都創建」を内定していた。慶応3年11月11日(1867年12月6日)、尾張藩第14代藩主徳川慶勝(藩主徳川義宣の父)が「正成を祀る神社の京都創建」を朝廷に請願し、朝廷はそれを承認し、慶勝に通知していた。 
3. その直後、「王政復古の大号令」が出され、それに続く政権交代の大混乱で、政府、朝廷は、内戦への対応で手いっぱいであり、神社創建案件はそのままになっていた。
4. 「王政復古の大号令」の約3か月後、兵庫裁判所(兵庫県の前身)役人が東久世通禧を通じて朝廷に嘆願した神社の「神戸創建」が認められた。
5. これに先立ち、東久世は、神戸で偶発した備前藩兵と外国軍隊の衝突事件(「神戸事件」)を、勅使として6か国公使と協議し処理した。東久世は、新政府の「外交上の危機」を救うという大手柄を立てた。事件処理後、兵庫裁判所総督に就任した東久世は、部下の役人たちの嘆願を、政府、朝廷に認めさせた。
6. もし、神戸事件が偶発していなければ、湊川神社は京都に創建されていた可能性が極めて高い。

2013年5月4日土曜日

内地雑居の暁 バラ色か地獄か 横山源之助 


『セルポート』201351日号(連載通算第442号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁 『内地雑居後之日本』 「痩せる人と肥る人」

『内地雑居後之日本』  明治3253日、横山源之助(18711915)が、天涯茫茫生の号名で『内地雑居後之日本』を刊行した。2か月後の717日には、新条約が発効し「内地雑居」が始まることになる。内地雑居とは「外国人に対して、居留地を特に定めずに、自由に国内に住まわせること(明治前期の語)」(『広辞苑』)である。

内地雑居で、外国人も、日本国内で自由に居住地を選び活動することが可能になる。内地雑居後の社会は、日本人にとり天国か地獄か。先に、紹介した坪内逍遥の近未来小説『内地雑居 未来の夢』では、内地雑居後の社会はバラ色であった。

横山は、明治から大正初期の社会派ジャーナリストで、毎日新聞記者を経てノンフィクション作家になり、多くのルポを書き、政府の社会調査にも関わった。代表作は『日本の下層社会』(明治324月初版)である

 ◆内地雑居の準備進む  「今や、甲も乙も、猫も、杓子も内地雑居を説き、七月以後を想像して身の始末をつけんとす、浮世風呂の流し場、床屋の店端、噂に出づるは内地雑居の事、鉄道の音響聞こへぬ草深き田舎に至るまで、永き(ママ)日を此の噂に消(くら)し居るなり」(『内地雑居後之日本』)

横山はさらに続ける(「上掲書』)

内地雑居の準備は、当局が45年前から着々と進めている。民法、商法等の法典は編纂され、警察事務は丁重かつ迅速になり、監獄事務も急に改められつつある。民間の英語研究会が数多く出現し、語学生が急増し、欧文の印刷所は忙しくなっている。教育者も内地雑居後の教育方法を研究し、文学者も「志ある者は世界の文学を頭脳に置いている。実業界では、「商人は日夜内地雑居後を夢み、工業家は資本を集めて基礎を固めん」。

◆職工と内地雑居  「あゝ読者諸君、特に余輩が本書に起きて(ママ)目的とせる職工諸君、卿等は果して他の社会の人達と同じく、此の七月にあるを覚悟し、内地雑居後の準備を為せるや、敢て問はん」「欧米人は利害の感念(ママ)極めて強く、権利の思想極めて高し」「彼ら欧米人は営利に凝り固まりたる拝金奴なり、故に彼等は我が国資本家の如くアマッチョロイ者にあらずして、事業の前には人情なく、涙なく、欲しいまゝに其の位置を利用して巨額の利を貪る」「勘定高く権利を此の上なき武器とせる欧米人が、異人種たる我が労働者使役するに於いては、何の人情あるべき、涙あるべき、()、彼等は一厘にても利益あらば可なりとして、高をくくり、職工をコキ使ふことは鏡に掛けて見るが如し」「あゝ内地雑居は欧米人と平和の戦争を開くなり」。横山は、過激な表現で「職工」階層に檄を飛ばしている。

◆内地雑居の明暗  カットの「内地雑居の暁 痩せる人と肥える人」では、「地所売買帳」を前に、悠々とキセルをくゆらせる肥った人と、帳簿を前に今にも泣き出しそうな痩せる人を対象的に描いている。社会が激変するときには、大儲けする人と大損する人を作り出すものである。