2012年12月29日土曜日
2012年12月28日金曜日
湊川神社創建の謎 「京都創建案もあった湊川神社」(湊川神社社報『あぁ楠公さん』2013新春号)
楠本利夫「京都創建案もあった湊川神社~湊川神社創建の謎~」
湊川神社『ああ楠公さん』(平成15年1月号)にこんな文章を載せました。
目次は次のとおりです。ご興味がある方は湊川神社広報までご照会ください。
・湊川神社はなぜ神戸にあるのか
・島津久光の楠社神戸創建建言
・尾張藩の楠社京都創建案
・神戸事件と勅使東久世通禧
・兵庫裁判所役人の神社創建嘆願と東久世通禧
・寄附と住民の勤労奉仕で神社創建
・湊川神社は神戸の宝・日本の宝
大楠公六百年大祭供詠 「湊川神社物語」(『セルポート』2013.1.1)
『セルポート』2013年1月1日号(連載通算第431号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第99話
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第99話
大楠公六百年大祭
◆大楠公六百年大祭供詠 昭和10年は湊川の合戦から600年の節目の年である。合戦が行われた5月25日を中心として前後1週間、「大楠公六百年大祭」が大々的に繰り広げられた。
6月2日、六百年大祭の最終行事として「献詠披講式」が開催された。
午前10時、六百年大祭奉賛会会長の勝田銀次郎市長、総裁の兵庫県知事湯沢三千男らが参殿した。秩父宮妃殿下、高松宮妃殿下等各皇族の詠歌に続いて、全国から供詠された和歌1900首余、漢詩200余篇、祭文1章が披露された。詠題は「橘花薫」である。
奉賛会会長、総裁、藤巻正之神社宮司がそれぞれ供詠した。
兵庫県知事 湯沢三千男(奉賛会総裁従四位勲三等)
たちはなの はなのかをりのいや高く たふときみよに生くるうれしさ
たちはなの はなのかをりのいや高く たふときみよに生くるうれしさ
神戸市長 勝田銀次郎(六百年大祭奉賛会会長勲四等)
みなと川 のちの世遠くなかれきて 立花はなのかをり久しも
別格官幣社湊川神社宮司 藤巻正之(正六位)
いつあはれ ことしはわきてたちはなの 花の香たかきこゝちこそすれ
いつあはれ ことしはわきてたちはなの 花の香たかきこゝちこそすれ
神戸新聞は「新緑の楠社に殉忠を讃ふ 大祭最終行事供詠披講式 光栄に輝く預選歌」の見出しで披講式の様子を報道した(6月3日朝刊)。
◆勝田銀次郎市長 「大楠公六百年祭献詠披講式参列記念撮影」(昭和10年6月2日)写真の前列右が勝田市長、中央が湯沢知事、左が藤巻宮司である。
勝田銀次郎は三大船成金の一人で、神戸市会議長を2度つとめた後、昭和8年に市会から懇願され歴代8人目の神戸市長に就任し、昭和16年まで在任した。
この写真は勝田陽子さん(中央区在住)が提供して下さった。
2012年12月23日日曜日
自治体国際担当職員向けテキスト『自治体国際政策論』執筆の動機と目的
本書は地方自治体の国際担当職員向けテキストとして書いた。自治体職員だけでなく、首長、議員、地域国際化協会、NGO・NPO等の職員にもぜひ読んでいただきたいと思う。筆者は神戸市における33年間の実務と、大学での10年間の国際政策研究に基づいて本書を執筆した。筆者がこの本を執筆した動機は次の4点である。
(「国際化政策」から「国際政策」へ)
第1は、自治体には「地域国際化政策」はあっても「国際政策」という概念がないためである。たしかに、自治体にも国際担当部課があり、職員はいつも忙しそうに働いている。国際担当職員に「あなたの自治体はどのような国際業務をしているか」と尋ねると、判で押したように、①姉妹都市交流、②青少年の海外語学研修派遣、③在留外国人との交流、④パンフレットや道路標識・駅看板等の外国語表記の外国語表示等を挙げる。これらの業務は地域国際化のために重要なものであることは間違いない。けれども自治体に求められる国際業務はそれだけではない。グローバル化が進展した今、これらを包含した「国際政策」が求められている。
筆者は自治体の国際事務を次の4つに分類している。すなわち、①外国との交流・交際(姉妹都市交流等)、②多文化共生(在留外国人との共生策)、③国際経済施策(外国人観光客・コンベンション誘致、外資系企業誘致)、④地域国際協力(福祉、上下水道等の住民生活密着分野で自治体の平素の業務で培ったノウハウ提供等)である。これらの事務を展開する政策を国際政策と定義している。
(自治体の人事異動)
第2は、自治体には国際事務を円滑に処理できる職員が育ちにくいことである。都道府県、市町村では、おおむね3年に一度、定期人事異動がある。初めて国際担当の部課に配属された職員は、新しい仕事に戸惑うことが多い。理由は、それまでやってきた仕事とは大きく違うように見える上、外国人住民を対象とする施策には簡単な外国語が必要になることもあるからである。新規配属職員は、「なにをどの程度までやったらいいのかがわからない」ので戸惑うため、前例踏襲を心がけ、一日も早く別の部下への移動を心待ちにすることになる。そのような職員のための実務的な教科書が必要なのである。
(住民力の活用)
第3は自治体への国際事務処理のための問題提起である。具体的には、①自治体が独自の国際政策を持つこと、②国際事務処理にあたっては住民力を活用し住民と連携して行うこと、③国際事務遂行に必要な自治体職員のグローバル・リテラシー(国際対応能力)育成、④国際事務の事業評価と事業仕分けである。自治体税制ひっ迫化の中で国際事務といえども聖域ではない。
(地域益増進)
第4は、自治体国際事務は、自治体本来の目的である「住民福祉の増進」(地方自治用)のための「手段」であることはいうまでもない。ところが、手段と目的とを混同している事例が決して少なくない。自治体の国際事務にも税金を投入する以上「地域益」の増進が求められる。地域益は、「住民福祉の増進」につながることであり、経済的利益だけでなく、地域文化創造、多文化共生、自治体のプレゼンス向上等も含め広義にとらえるべきである。
(国際事務の理論と実践)
第5は、これまで自治体国際事務について理論と実践を分かりやすく解説する教科書がほとんどなかったためである。地域国際化、多文化共生に関する本はたくさん出されている。けれども、自治体職員向けの国際事務の入門書はきわめて少ない。
2012年12月14日金曜日
美濃部達吉の名刺広告 天皇機関説を排撃した大物政治家と呉越同舟 大楠公六百年大祭 「湊川神社物語」(『セルポート』12.12.11号)
『セルポート』2012年12月21日号(連載通算第430号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第98話
大楠公六百年大祭 美濃部達吉の大祭協賛名詞広告のなぞ
◆美濃部達吉の名刺広告 昭和10年5月24~28日、「大楠公六百年大祭」が執り行われた。5月25日は楠木正成が湊川の合戦で敗れて自害した日である。「神戸又新日報」は連日大祭関連記事と大祭協賛名刺広告を載せた。5月25日付の「神戸又新日報」に美濃部達吉の名刺広告を見つけた。美濃部を含め計6人が並んで大祭協賛の名刺広告出している。筆者の興味を引いたのは、天皇機関説を排斥した大物議員が美濃部の隣に名刺広告を出していることである。
山本悌二郎は、農林大臣も務めた政友会の重鎮で、天皇機関説を排撃し国体明徴運動を推進した貴族院議員である。白根竹介は第23代の兵庫県知事で、埼玉、岐阜、静岡、広島の各知事や、岡田内閣書記官長等を歴任した内務官僚で貴族院議員である。
国府種徳は大正、昭和初期の詔勅等を起草した内務省官僚である。
侯爵徳川圀順は水戸徳川家第13代当主の貴族院議員で、大楠公六百年大祭の名誉総裁である。
池永浩久は元俳優、映画製作者、実業家である。
◆美濃部の名刺広告の背景
大祭が行われたこの年は、軍部と右翼が美濃部の天皇機関説を排撃し国際明徴運動を推進した年であった。2月18日、貴族院本会議で菊池武夫議員が美濃部の天皇機関説を攻撃した。2月25日、美濃部は貴族院で、天皇機関説をわかりやすく説明し、自身への「反逆者、謀反人、学匪」呼ばわりに反駁した。3月23日、衆議院が「国体明徴」決議案を可決した。4月9日、美濃部は不敬罪で告発され、著書3冊が発禁処分となった。8月3日、政府は、天皇機関説は「わが国体の本義を誤る」との第1次国体明徴声明を出した。9月18日、美濃部は貴族院議員の辞表を提出した。10月15日、政府は「天皇機関説は国体にもとる」との第2次国体明徴声明を出した。天皇機関説の教授は禁止された。美濃部は起訴猶予となったが、9月18日、貴族院議員を辞職した。
◆美濃部はなぜ名刺広告を出したのか 美濃部が名刺広告を出した7日前の5月18日号「神戸又新日報」に「‘憲法学説’問題の解決に陸相不満 一層徹底的解決を望むと林陸相
首相に進言」の見出しの記事が載っていた。林 銑十郎陸相が、天皇機関説問題についての政府の態度が生ぬるいとして岡田啓介首相に「国家解釈の確立と機関説の徹底的消滅」等を求めたのである。
美濃部は、なぜ、国体明徴推進者で天皇機関説を排撃した山本議員と並んで、六百年大祭協賛の名刺広告を出したのか。呉越同舟である。2つの可能性が考えられる。
第1は、美濃部が世論の攻撃に耐えかねて保身のために広告を出したことである。
第2は、美濃部は学者として天皇機関説を唱えたが個人的には大楠公への崇敬心を持っていることを天下に訴えたかったことである。大楠公を崇敬していた美濃部が、学者としての信念に基づき天皇機関説を権力に屈することなく堂々と主張したとすれば、戦後、「自虐史観」を身上とする「進歩的文化人」たちによって誤解されていた正成の魂が救われるような気がする。
「神戸又新日報(昭和10年5月5月25日)
本稿から引用する場合は必ず引用元(ブログ名と筆者名)を明記してくださるようお願いします。
2012年12月6日木曜日
徳川圀順、湯沢三千男、勝田銀次郎 大楠公六百年祭大祭 「湊川神社物語」(『セルポート』2012.12.11号)
『セルポート』2012年12月11日号(連載通算第429号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第97話
大楠公六百年大祭
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第97話
大楠公六百年大祭
◆大楠公六百年大祭 昭和10年5月24~28日、大楠公六百年大祭が執り行われた。延元元(1336)年5月25日の湊川の合戦から600年の大祭である。
この年2月18日、貴族院本会議で菊池武夫議員(予備役陸軍中将)が、美濃部達吉(東京帝国大学名誉教授)の天皇機関説を攻撃した。このとき美濃部は貴族院議員であった。2月25日、美濃部は貴族院で弁明演説を行った。3月23日、衆議院で「国体明徴」決議案が可決された。国体明徴運動とは、軍部と右翼が天皇機関説は国体に反するとして起こした運動である。4月9日、美濃部は天皇機関説のため不敬罪で告発され、『逐条憲法精義』等著書3冊が発禁処分となった。9月、美濃部は貴族院議員を辞職した。美濃部は高砂市出身であるので兵庫県とは縁がある。
この年、日本人の平均寿命は、男子44.8歳、女子46.5歳であった(『年表 昭和平成史』岩波書店)。2011年は男子79.44年、女子85.90年となっている。日本人も長寿になったものである。
◆大祭奉賛会 大楠公六百年大祭奉賛会が組織され、会長に神戸市長勝田銀次郎、総裁に兵庫県知事湯沢三千男、名誉総裁に旧水戸藩主家の徳川圀順がそれぞれ就任した。5月18日、天皇から金1000円の下賜があり、兵庫県、神戸市、学校、有志から17万円の寄付があった。巡査の初任給が45円、高文試験合格者の初任給が75円の時代である。
◆5日間の大祭 5月24日の宵宮祭に続き、25日大楠公六百年大祭が執行された。天皇下賜の幣帛を奉り、続いて、徳川圀順名誉総裁、湯沢三千男知事、勝田銀次郎市長、寄付者代表川西清兵衛、氏子総代代表菅音二郎、参列者3000人が参拝した。26~27日、神幸祭が、市内一円(灘区篠原本町から西須磨一の谷の間)で行われた。5月28日、報賽祭が行われ、29日には湊川合戦忠魂祭が執行された(湊川神社『大楠公』)。市内全域で全国忠孝節義社旌表式、献華祭、献茶祭、能楽会、武道会、体育会、講演大会、供詠披講等の記念行事が行われた。
5月22日、大楠公銅像が湊川公園に建立された。神戸新聞社が市民募金で建立したこの銅像は、湊川の合戦で奮戦する大楠公像である。東京の皇居外苑の大楠公像は後醍醐天皇を兵庫福厳寺で出迎えたときの像である。芦屋では市民募金で「大楠公戦跡碑」が建立された。
◆参詣著名人 この年に湊川神社を参詣した著名人は次のとおりである(上掲書)。
横山大観(大楠公画像を制作して奉納)、元内閣総理大臣斎藤実、侯爵前田利為、海軍大将竹下勇、徳富猪一郎、徳川圀順、湯沢三千男、勝田銀次郎、北白川宮永久王と同妃、東久邇宮稔彦王妃允子内親王、陸軍大将井上光、海軍大将竹下勇。賀陽宮邦壽王と同妃、賀陽宮治憲王、賀陽宮恒憲王、澄宮崇仁親王、陸軍大将奈良武次、陸軍大将寺内正穀、東久邇宮稔彦王、スペイン皇太子、侯爵徳川慶光等。参詣者に皇族と軍人が圧倒的の多かったことから時代が読みとれる。
文学博士平泉 澄『大楠公六百年祭を迎へて』(大楠公六百年大祭奉賛会、昭和10年2月20日)表紙
2012年12月2日日曜日
忠犬ハチ公像も供出 楠木正成像の盗難 (「湊川神社物語」『セルポート』2012.11.11号)
『セルポート』2012年11月11日号(連載通算第426号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第94話
大楠公像の盗難
◆金属供出令 前掲『銅像受難の時代』(芳川弘文堂)から銅像に関する話題を紹介する。
昭和16年1月31日「金属類特別回収要綱ニ関スル件」が閣議決定され、不要不急の鉄鋼製品や銅製品が回収されることとなった。それでも、この時点ではあくまで国民生活に支障がないよう比較的回収容易なものが回収されることとなっていた。
昭和18年3月5日、「銅像等ノ非常回収実施要綱」が閣議決定され、「逼迫セル銅ノ需給ニ鑑ミ(略)此際既設制作中ノモノヲ問ハズ銅像等の非常回収ヲ即時断行スル」こととなった。実施に当たっては政府が国民に啓発宣伝し「飽迄愛国心ノ発露ニ依ル如ク措置スル」こととされた。昭和9年に建立された忠犬ハチ公像も昭和19年10月12日に供出された。
◆楠公像の受難 昭和12年3月11日朝、大阪府の布施第四小学校の校庭の楠公像が
台石の上から姿を消しているのを用務員が発見した。この像は同校教育後援会の寄付で
建設された高さ5尺(1.5㍍)、重量60貫(225kg)、台石を含め10尺(3㍍)の立派な
青銅製の像である。台石には本庄繁陸軍大将揮毫の「七生報国」の字が刻まれている。
登校した児童が、像がなくなっているのを発見して騒ぎだした。朝会で校長が
大楠公の銅像がなくなっても悲観してはいけません。私たちは大楠公精神に敬礼しているのです。銅像がなくなっても楠公さんの精神に今朝も敬礼しませう」と訓示した。
銅像は、前日夜10時から当日朝6時までの間に盗まれた。当直の訓導が責任を取って辞表を提出した。当時、鉄、銅の値上がりで小学校の二宮尊徳像や村の半鐘等の盗難が相次いでおり、警察が警戒していた矢先である。学校と後援会は、盗まれた銅像が帰らない場合は、大楠公像を再建することを決めた。警察は、現場に残されていた兜の角2本に残った指紋を手掛かりにして、鋳潰しを警戒し、大阪市内の地金商に一斉に手配した。
◆犯人逮捕 事件はすぐ解決した。「楠公さん無残な姿 受難の銅像 古物屋で発見 犯人四名も捕はる」(大阪朝日新聞、同年3月13日夕刊見出し)。盗難の翌朝8時半、天王寺区内の地金商に銅像を売り込みにきた古物商がいた。その家を警察が急襲して、30数片に無残にたたきつぶされた銅像を発見した。
3人の拾い屋が、大楠公像を2時間がかりで校庭から盗み出し、菰で隠して大八車に積んで古物商の家まで運び込み、裏庭で銅像を粉砕して売りに出した。彼らの動機に政治的意図はなく、金属高騰に目を付けただけであった。4人が朝鮮半島出身者であったことが同胞を刺激した。半島出身者から銅像再建募金への申し出が続いた。全国から2500人、2千円余の寄付が集まった。4月29日、再建した銅像の除幕式が同校校庭で盛大に執り行われた。盗難事件は美談として見事に幕が引かれた。
登録:
投稿 (Atom)