『セルポート』2012年10月21日号(連載通算第424号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第92話
大楠公の銅像
◆銅像受難 畏友下川浩一郎君が、興味深い書物を紹介してくれた。平瀬礼太『銅像受難の近代』(芳川弘文館、2011年)である。「明治以後に続々と建てられた楠木正成・二宮金次郎・西郷隆盛など偉人たちの銅像。その多くは時代に翻弄され、戦時中に鋳潰されたり、戦後に撤去されたりした。銅像たちの数奇な運命を激動の近代史の中に読み解く」(上掲書)。
楠木正成の像は全国に数多い。東京と神戸には立派な楠木正成の銅像がある。東京皇居外苑の騎馬像は、明治33年に住友家が建立した。神戸湊川公園の騎馬像は、昭和10年に神戸新聞社が建立した。同書から全国の楠木正成銅像の話題を紹介したい。
◆皇居前楠木正成像 実は、皇居前に住友が銅像を作ることも、楠公の銅像とすることも、最初から決まっていたのではない。
明治中期、「靖国神社」に楠公馬上の肖像を奉納する計画があり、高村光雲が注文を受けて彫刻し、明治24年秋ごろ竣工する予定であった(『日本』(明治22年6月30日号。平瀬前掲書)。
一方、同じ時期に、これとは別に、「宮城門外」に「何らかの銅像」を建立する動きがあった。
帝国博物館は、明治22年7月、東京美術学校、日本美術協会、京都画学校、東京彫工会等に、美術図案を募集した(『東京朝日新聞』(明治22年7月16日号。平瀬前掲書)。懸賞金付きの図案募集である。
帝国博物館の九鬼隆一総長は、日本美術協会会頭に、図案を考案してほしい旨書状で依頼し、「皇城に荘厳さを与え、本邦美術の模範たるべきものであるので、気格形相はなるべく森厳を旨とするよう」との条件を付けた。
川畑玉章と岡倉秋水が共同で提案した「楠廷尉甲冑騎馬の像」が「優等」に選ばれた。博物館からの賞金50円は2人で折半した。巡査の初任給が8円(明治24年)の時代である(『値段史年表』朝日新聞社、昭和63年)。賞金額は現在なら約120万円となる。
◆別子銅山200年記念事業 明治23年は「別子銅山開坑200年」にあたる。住友本店は、記念事業として。別子銅山からとれた銅で銅像を鋳造して奉献することとなり、関係者の許諾を得て、意匠制作を東京美術学校に委嘱した。
木型彫刻は高村光雲と山田鬼斎、後藤貞行が担当した。既存の楠公の肖像は使わず、主として高村光雲が「楠公の性情によって面貌を割り出し」、そのイメージに基づいて光雲が作成した木彫りの試作像を専門家に諮り、意見を取り入れた上で、像の原型を作った。
刀剣、身体、乗馬等も、それぞれ専門家が考証した。鋳造をしたのは岡崎雪声である。岡崎は、日本古来の鋳造法と、米国での調査でヒントを得た方法を折衷し、兜、両袖、草鞋、太刀、手綱等は別々に誂え、日本古来の方法で取り付けた。馬は、胴と頭と四足と尾を7つに分けて洋式で鋳造した(永元愿蔵『楠公銅像記』(1900年。上掲書)。
明治29年、鋳造が完成した。像を設置する場所は、皇居二重橋の馬場先門内西南に決まり、宮内省が予算で台石を建設することになった。像は、明治32年に起工し、翌33年に完成した。
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