「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第91話
徳重中堂と打出楠公社、阿保親王祭
現在も、同じ場所に、中堂の孫の徳重光彦氏が住んでおられる。徳重邸の玄関脇の石垣に、大楠公戦跡の由来を彫った石板の一部が埋め込まれている。「建武三年一月十一日
即ち湊川戦役を先立つこと百日目 大楠公が逆賊高氏の大軍を破り遠く九州まで敗退せしめる打出山古戦場は此南方後清水谷を中心とする 昭和八年○○○(摩耗のため判読不能)」とある。表示板が途切れているのは、もとの大きな石板を現在の石垣に埋め込む時、石垣のサイズに合わせて切断したためであろう。
徳重中堂 中堂は明治14年に山口県美祢郡真長田村で生まれた。明治38年、東京高等商船学校を卒業し大阪商船㈱に入社した。大正元~2年、英国に留学し、3年、大義丸の船長となった。4年、大阪商船を退社し、逓信省海員審判官に任官し長崎で勤務した。明治40年に退官し、日本海事工業㈱、帝国サルベージ㈱、神戸塗料㈱、海陸商事㈱等5つの会社の経営に携わった。退任後、中堂は、故郷の小学校に土地、二宮金次郎の銅像、伊勢参拝基金の寄附をしている(岡邑嘉三『徳重中堂
思想と生涯』平成5年)。
三徳塾 外国航路の船長、会社経営等で財をなした中堂は、積極的に社会貢献事業を行った。中堂は、昭和3年から16年間までの14年間に限っても、「大小合わせて60以上の事業を完行している。(略)これらの事業の枢軸をなすものが伊勢皇大神宮の崇敬であり、日本国の国体の明徴であると推察される」(上掲書)。
昭和7年、中堂は、故郷の真長田村に、松下村塾をモデルとした青少年教育施設「三徳塾」を開設した。動機は、当時「郷里の真長田村では(略)農村経済は疲弊のドン底に陥り」「夜逃げして都会の工業地帯に職人として職を求め離村するものが相次いで、農村破滅の一歩手前」であっため「有為の青少年に自力更生の魂を入れさせ」ることであった。塾の教育方針は、「拝むー天照皇太神。行うー教育勅語。捧げるー献身殉国」であった(上掲書)。
阿保親王祭復活 昭和10年、中堂は、大楠公六百年祭記念事業として、それまで途絶えていた阿保親王祭を復活させた。阿保親王は桓武天皇の孫、平城天皇の第二皇子で、在原業平の父である。阿保親王墓(翠ケ丘町11)は、中堂の屋敷から西北約300㍍にある。
中堂は阿保親王奉賛会を組織し、昭和10年宮内省の内諾を得て、毎年12月1日に祭典を執行することとした。祭祀費はすべて中堂の負担である(岡邑前掲書)。
(芦屋大学客員教授 楠本利夫)
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