2016年4月14日木曜日

公開講座(神戸近現代史)楠本利夫

神戸近現代史公開講座

講師:楠本利夫 博士(国際関係学)、日本パン学会副会長

1. 神戸山手大学公開講座

・2016年前期(土曜日午後2時~3時半) 
・於:神戸山手大学2号館 JR元町駅北東7分。相楽園西
・有料
・テーマ
①5月 7日:「志摩三商会」と三田藩主従たち
②5月21日:「大津事件と神戸」
③6月25日:「海外移住基地神戸」
④7月 9日:「加納宗七と生田川付替」
⑤7月23日:「和田岬物語」
・申込先:神戸山手大学地域連携センター(078-351-4170)

2. 大学共同利用施設UNITY(ユニティ)公開講座

・8月20(土)1400~1530(於:UNITY(神戸市営地下鉄 研究学園都市下車南1分) 
・テーマ:「神戸・パン物語~神戸のパンはいつから全国区になったのか~」
・有料
・申込先:UNITY事務局 TEL 078-794-4970

3. 神戸開港150年/KCC60周年記念 

特別講演会/施設見学会/昼食会(主催:神戸新聞文化センター)
・日時:10月5日(水)1000~1330、19日(水)1000~1330)
・講演:「神戸開港物語」(於:神戸外国倶楽部) 
・施設見学:
  神戸外国倶楽部
  神戸外国人墓地
  神戸レガッタ&アスレティック倶楽部(KR&AC)
・ランチ2回(10月5日:神戸外国倶楽部、10月19日:KR&AC)
・神戸外国人墓地へは専用車で送迎
・有料
・申込先:神戸新聞文化センター 078-265-1100(担当:稲田)

2016年4月5日火曜日

『豪商 神兵 湊の魁』(9)避難港「加納湾」(『セルポート』2016.4.1号)  

            神戸今昔物語(第538号)
『豪商 神兵 湊の魁』(9) 海運業の芽生え(4)「加納湾」
 
◆私費港湾建設  加納宗七は、生田川跡地の市街地整備に続いて、旧生田川尻東側に私財2万円を投じて「船溜」(避難港)を建設した。建設は明治6年7月に開始し、明治8年10月に荷揚場と水域面積1.1haの船溜が完成した。

宗七が私費で港湾施設を建設した理由は、明治4年5月の台風で、和船500隻が破壊され、汽船7隻が海岸に打ち上げられ、海岸通で回船業を営んでいた宗七も被害を受けたからである。

本来、船溜は、国か県が建設すべき施設である。当時の政府は港湾施設を建設する財政的余裕がなかったため、宗七が私費で建設した。

明治6年6月、宗七は兵庫県令神田孝平に「船溜新築之儀」を提出し7月22日に許可を受けた。明治8年10月、宗七は「船溜築港成功御届」を提出した。船溜は宗七にちなんで「加納湾」と呼ばれた。加納湾の建設費を償却するため、宗七は入港船舶から石高に応じて使用料を徴収することとし、11月10日、「私費築港概算費御届」を県令に提出し、翌9年3月、「船口銭取立法願い」が許可された。

◆加納湾と小野浜造船所  明治11年、英国人E.C.キルビーが、小野浜に「キルビー商会造船所」を建設した。キルビー造船所は、E.H.ハンターの大阪鉄工所(後・日立造船)と並び、日本の近代造船所の黎明期に大きな役割を果たした。

キルビー造船所では小型汽船を建造した。明治15年、日本最初の鉄製蒸気船「第一太湖丸」が完成し、さらに、海軍省から、初の鋼鉄製軍艦「大和」の建造を受注した。

明治16年、キルビーが旅先の横浜で突然死した。資金繰りに困った自殺説、突然死説等、死因は現在も謎のままである。海軍省は、大和の建造費の内払金15万円をキルビーに支払済みであった。明治17年3月、海軍省は、造船所にさらに30万円を追加して支払い、造船所を、建造中の大和もろとも買収した。このとき、海軍省は、造船所東隣の「加納湾」も一緒に購入して付属ドックとし、「海軍省主船付属小野浜造船所」と称した。海軍省が。造船所と建造中の大和を一括購入した理由は、もし、造船所が倒産すれば、大和建造のため支払い済みの打払金が回収できなくなり、経理手続上面倒なことになることを懸念したためである。

明治23年、小野浜造船所は呉鎮守府の管轄になったが、明治28年6月に閉鎖され(『神戸市史別禄二』)、加納湾は兵庫県に移管された。加納湾は後に埋め立てられて国鉄小野浜駅操車場になり、阪神淡路大震災の後、震災復興記念公園になった。

◆侠商宗七  宗七は国家、社会のために尽くす気概を持った任侠肌の国士的侠商であった。
明治19年9月、内海忠勝兵庫県知事は、宗七の雲中尋常小学校「小野浜分校建築費1千円寄付」を称えて「木盃3組」贈呈し、宗七の死後、明治20年9月、内海知事は、宗七の「布引滝道筋に桜植樹」事業に対し賞状を授与した(『神戸市史本編各説』)。

                    加納湾(『神戸開港百年史 建設編』

2016年3月24日木曜日

明治神戸の商工名鑑『豪商 神兵 湊の魁』(7)~開港場神戸における海運業の芽生え: 加納宗七(続)~(『セルポート』2016.3.21号)

       神戸今昔物語(第537号)湊川神社物語(第2部)
      「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(80)
      『豪商 神兵 湊の魁』(8)~海運業の芽生え(2):加納宗七(続)~  
 

◆生田川付替  もともと生田川は現在のフラワーロードを流れていた。普段はほとんど水がないこの川は、いったん大雨が降ると濁流が堤防を越えて外国人居留地を水浸しにした。下流左岸の外国人墓地では土葬死体が露出することもあった。外国人は兵庫県に堤防改修を要請した。

明治3年、外務大輔寺島宗徳が民部省、大蔵省の役人とともに現地調査し、堤防改修より流路付替えが工費は安いと結論付けた。

明治4年3月1日、新流路が決定した。生田川は布引からまっすぐ南へ付け替えることになった。川口は旧川口の900㍍東に決まった。付替えの事業主体は兵庫県である。

6日、新流路沿いの生田村と脇浜村の住民14戸に、3日の期限を切って立退き命令が出された。生田川上流の水車小屋では、菜種油絞り、酒米の精米、素麺粉作り等が行われていた。川水は農業用水でもあった。宗七は、立退き交渉、水利権調整等に力量を発揮した。立ち退きは3日後の3月9日に完了した。工事は3月10日に着工し、6月9日に完成した。人力による工事としては驚くべき短工期であった。

◆河川敷市街地整備   兵庫県は、旧河川敷の市街地整備事業者を入札に付した。宗七の娘婿の有本明が一番札、宗七が2番札であった。宗七と有本は共同で事業を請負った。

 工事は明治4年11月に着手し、6年5月完成した。南北に10間(18.18m)道路、東西に6間(10.8m)道路5本が通る、堂々とした市街地(13.8ha)が完成した。南北道路は現フラワーロードである。当時、西国街道が2~3間(3.6~5.4m)、海岸通が5間(9m)であった。人々はそれまで見たことがない広い道路に目を見張った。明治6年11月に完成した栄町ですら、県は10間道路にしようとしたが「道路幅が広すぎる」との反対にあい、結局、道路幅員は9間となった。

 幅員が広い道路は、街の減災、円滑な交通、街の格向上の効果がある。半面、売却可能面積は減少する。今日のフラワーロードから、145年前に、商人宗七が、事業収支よりも幅員が広い道路を選択した先見性が伝わってくる。

◆土地はなぜ売れなかったのか  宗七が造成した土地はまったく売れなかった。理由の第1は、維新政府の先行きへの不透明感であった。維新政府は、政権奪取後に勃発した戊辰戦争には勝利したものの、その前途はまことに多難であった。実際、廃藩置県後、全国で不平士族が反乱を起こしている。第2は、住民の外国人への警戒感である。住民が外国人居留地の近くに土地を購入することを嫌がったからである。第3は、地租改正が具体化すると土地に高率の税金がかけられ、地価が下落するかもしれないと考えられていたからである。

 結局、志摩三商会の小寺泰次郎が土地を破格の坪10銭で購入した。志摩三商会は、明治5年11月に、三田藩最後の藩主九鬼隆義らが栄町通に設立した輸入薬品機械商社で、不動産取引と闇金融で巨利を得ていた。後に、九鬼と副社長の小寺は、神戸の長者番付に名を連ねることになる。
 

    生田川付替え跡地(左)と新生田川(右)(『兵庫県史 第5巻』



 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 



2016年3月20日日曜日

「歴史ろまん紀行」~eo光テレビ「関西地域密着型・歴史番組」~

ケーブルテレビ「eo光」に「歴史ろまん紀行」という30分番組があります。

1. 関西地域密着型の歴史番組ですので、身近な地域史を知ることができます。
この番組は、テレビ受信契約をしていなくても、パソコン画面で、いつでも、どこでも、無料で見ることができます。

2. 番組を見るには、
パソコン画面で「歴史ろまん紀行」と入力するだけです。
http://eonet.jp/eohikari-ch/rekishi/

3. この番組のいいところは次の点です。
①関西地域密着型の歴史番組:
・毎日何気なく見過ごしている地域の歴史を改めて発見することができる。
・休日など、時間ができたとき、すぐに現地を訪問することができるので、家族旅行の対象地選びにも使える。
②30分番組:30分完結型なので緊張感をもって見ることができる。長時間を割けないときにも見ることができる。
③コマーシャル一切なし:思考が中断されない。無駄な時間を取られない。
④録画不要:パソコン画面でいつでもどこでも見ることができる。テレビ受信契約をしていなくても番組を見ることができる。
⑤地域歴史教育:子供たちの地域史教育にも使える。

4. 番組の総合プロデューサは、かつて朝日放送で数々のドキュメンタリー番組を手掛け、名誉ある賞を軒並み受賞した伝説の名カメラマン小寺幹雄さんです。

5. アーカイブもありますので、時間があるときに過去の番組をすべてパソコン画面で見ることができます。

6. 私が出ている番組は次の16本です。

「神戸の地図を塗り替えた男 加納宗七」

「茶商 山本亀太郎~成功と挫折」

「九鬼隆義と志摩三商会」

「居留地返返還後への困惑」

「不平等条約改正後の神戸」

「ノルマントン号事件と不平等条約改正」

「神戸の鹿鳴館時代~不平等条約改正への努力~」

「料亭王・前田又吉」

「西の海運王・光村弥兵衛」 

「トアホテルとその時代~神戸モダンの時代~」

「神戸居留地15番館~アメリカ領事館から見た神戸」

「陸奥宗光~不平等条約を改正せよ~」

「湊川神社創建~勤皇の志士の聖地に~」

「神戸事件~明治政府開国宣言~」 

「川崎正蔵~川崎財閥創始~」

「第一回ブラジル移民~拓人精神~」

2016年3月9日水曜日

『豪商 神兵 湊の魁』(7)~海運業の芽生え: 加納宗七~(『セルポート』2016.3.11号)

戸今昔物語(第536号)湊川神社物語(第2部)
      「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(79)
     『豪商 神兵 湊の魁』(7)~海運業の芽生え(2):加納宗七~  

 ◆加納宗七  3月1日号で、海岸通の回送業・加納宗三郎について書いた。宗三郎は加納宗七の三男である。宗七は明治初期神戸の都市改造に大きな足跡を残し、加納町という町名に名を残している。昨年、伝記(松田裕之『加納宗七伝』)も刊行された。開港150年を控え、宗七の偉業をあらためて見直したい。

◆加納宗七の謎  宗七にはいくつかの謎がある。

①商人の宗七がなぜ坂本龍馬殺害犯への襲撃に加わったのか。②宗七はなぜ神戸に来たのか。③財政逼迫の維新政府が、なぜ「生田川付替え」事業費を出したのか。④宗七は生田川付替事業でなにをしたのか。⑤宗七による生田川河川敷跡地の市街地造成事業の特徴は何か。⑥宗七はなぜ避難港「加納湾」を建設したのか。⑦宗七はどんな人物だったのか。

◆宗七と坂本龍馬  紀州藩御用達の材木商人宗七は、同郷の陸奥を通じて、坂本龍馬、勝海舟等の知遇を得た。勝海舟が元治元(1864)年に開設した神戸海軍操練所の塾頭は坂本龍馬で、陸奥宗光(陽太郎)は副長格であった。

◆天満屋騒動  慶應3年11月15日(1867.12.10)、坂本龍馬と中岡慎太郎が京都河原町の近江屋で何者かに殺害された(「近江屋事件」)。22日後の12月7日(1868.1.1)、京都七條油小路の旅籠天満屋で、紀州藩要人の三浦休太郎が、陸奥宗光、海援隊残党、陸援隊ら総勢16名に襲撃された(「天満屋騒動」)。

襲撃隊と三浦の身辺警護をしていた新選組が、凄惨な死闘を展開した。負傷した三浦は、とっさの機転で、室内の灯りを吹き消し、暗闇の中で「三浦を打ち取った!」と大声で叫んだ。襲撃隊は目的達成と思い込んで退却した。三浦は屋根伝いに逃げて一命をとりとめた。双方に死者と重傷者が出た。

陸奥らが三浦を襲撃した背景に次の事件があった。龍馬暗殺の半年前の4月23日、海援隊が用船した伊呂波丸が、讃岐沖で、紀州藩蒸気船明光丸と衝突し沈没した。龍馬の恫喝と巧みな交渉の結果、紀州藩が屈辱的な賠償金を支払わされた。「紀州藩の三浦が龍馬を恨んで暗殺した」とのうわさが流れていた。

 宗七も襲撃隊のひとりだった。武芸の心得がない商人の宗七の役割は、資金援助や見張りであった。宗七は襲撃者に一人当たり逃走資金として4両を渡している。

◆宗七、神戸に  天満屋騒動が起きたのは、神戸開港式が行われた日の夜である。

騒動後、宗七は京都を逃れ神戸に花隈に隠棲した。襲撃で深手を負った元海援隊士竹中与三郎の手助けである。与三郎の実家は二つ茶屋村にあった。

騒動2日後、王政復古の大号令が出された。もはや新選組や幕府役人を心配することはない。

宗七が神戸を選んだのは、灘五郷の酒樽需要と、開港場神戸の公共事業による木材需要を見込んだためでもあった。宗七は、海岸通で材木問屋、回漕店、船宿を開いた。

40歳で神戸に来た宗七は、明治20年、海岸通4丁目の自邸で60年の人生を終えた。
 
加納宗七像(神戸市立博物館蔵)
 

2016年3月5日土曜日

『豪商 神兵 湊の魁』(6)~海運業の芽生え:加納宗三郎~(『セルポート』2016.3.1号)

神戸今昔物語(第535号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(78)

『豪商 神兵 湊の魁』(6)~海運業の芽生え:加納宗三郎~

◆海運業の芽生え  『豪商 神兵 湊の魁』(明治15年)から、開港から10年余が経過した神戸が、海運の拠点となりつつあったことがわかる。幕末、北前船の拠点として栄えていた兵庫津に代わり、開港場神戸の海運が発展していく。

「魁」所載の神戸区の海運事業者は21社(神戸17、兵庫2)である。

 神戸19社の事業者は次のとおりである。

・元町通(6社):1丁目「滊船乗客荷物取扱所 松本重兵衛」、2丁目「同 千むよし」、3丁目「同 宮崎伊之助」、5丁目「同 松井とよ」「同 山中常次郎」、6丁目「同 寶井文治郎」。

・栄町(5社):4丁目「汽船偕行會社」「滊船乗客荷物取扱所 池田ます」「同 重田まさ」「同 藤本佐助」「同 山中常蔵。」

・海岸通(6社):4丁目「三菱會社乗客荷物取扱所 加納宗三郎」「同 本家丸嘉 安藤嘉左ヱ門」「汽船 神港社」「滊船乗客荷物取扱所 村上萬吉」「同 山中常造」、5丁目「三菱汽船荷物乗客取扱所 山田辰五郎」。

・多聞通(1社):5丁目「滊船乗客荷物取扱所 山中常次郎」。

兵庫には神明町「三菱會社荷物取次所 高見善兵衛」、宮内町「滊船乗客荷物取扱所 筏まち」の2社がある。

◆加納宗三郎  明治13年10月28日、「神戸区海岸通四丁目六番屋敷 加納宗三郎」が、神戸区長村野山人に「旅籠開業鑑札願」を出願し認められた。

海岸通4丁目の「三菱會社乗客荷物取扱所 加納宗三郎」は、豪壮な4階建で、1階は事務所、2~4階は旅館である。当時、回漕店は船宿を兼ねることが多かった。建物に紀の旗が翻えり、「郵便滊船取扱所」、「東京丸」「名古屋丸」「廣島丸」「玄海丸」の看板が見える。

◆加納宗七  加納宗三郎は加納宗七の三男である。宗七は生田川付替(明治4年)と、旧生田川河川敷の市街地造成事業で神戸に大きな足跡を残した。加納町は宗七の功績を称えてつけられた町名である。

宗七は、旧生田川尻に、私費で避難港「小野浜船溜」(水面面積18ha)を建設した。「加納湾」と呼ばれるこの避難港は、明治17年に海軍省に買収され、大正5年に埋め立てられて臨港鉄道神戸港貨物駅になり、阪神淡路大震災後は震災記念公園になっている。

◆天満屋騒動  宗七は40歳のとき神戸に来て60歳で生涯を閉じた。墓は追谷墓地にある。

もともと、宗七は和歌山藩御用達の材木商人で、同郷の陸奥宗光と親交があり、陸奥を通じて勝海舟、坂本龍馬らの知遇を得た。

慶応3年12月7日、陸奥宗光ら16人の海援隊、陸援隊士が、京都の旅籠天満屋にいた三浦休太郎を、坂本竜馬殺害犯人として襲撃した(「天満屋騒動」)。襲撃者の中に宗七もいた。坂本龍馬はこの襲撃の20日前の慶應3年11月15日に、京都近江屋で何者かに暗殺されている。

天満屋騒動が起きた日は奇しくも神戸開港日である。

事件後、宗七は神戸逃れてきて、西之町(現海岸通)で材木問屋、回送業、船宿を経営した。