『豪商 神兵 湊の魁』(9) 海運業の芽生え(4)「加納湾」
◆私費港湾建設 加納宗七は、生田川跡地の市街地整備に続いて、旧生田川尻東側に私財2万円を投じて「船溜」(避難港)を建設した。建設は明治6年7月に開始し、明治8年10月に荷揚場と水域面積1.1haの船溜が完成した。
宗七が私費で港湾施設を建設した理由は、明治4年5月の台風で、和船500隻が破壊され、汽船7隻が海岸に打ち上げられ、海岸通で回船業を営んでいた宗七も被害を受けたからである。
本来、船溜は、国か県が建設すべき施設である。当時の政府は港湾施設を建設する財政的余裕がなかったため、宗七が私費で建設した。
明治6年6月、宗七は兵庫県令神田孝平に「船溜新築之儀」を提出し7月22日に許可を受けた。明治8年10月、宗七は「船溜築港成功御届」を提出した。船溜は宗七にちなんで「加納湾」と呼ばれた。加納湾の建設費を償却するため、宗七は入港船舶から石高に応じて使用料を徴収することとし、11月10日、「私費築港概算費御届」を県令に提出し、翌9年3月、「船口銭取立法願い」が許可された。
◆加納湾と小野浜造船所 明治11年、英国人E.C.キルビーが、小野浜に「キルビー商会造船所」を建設した。キルビー造船所は、E.H.ハンターの大阪鉄工所(後・日立造船)と並び、日本の近代造船所の黎明期に大きな役割を果たした。
キルビー造船所では小型汽船を建造した。明治15年、日本最初の鉄製蒸気船「第一太湖丸」が完成し、さらに、海軍省から、初の鋼鉄製軍艦「大和」の建造を受注した。
明治16年、キルビーが旅先の横浜で突然死した。資金繰りに困った自殺説、突然死説等、死因は現在も謎のままである。海軍省は、大和の建造費の内払金15万円をキルビーに支払済みであった。明治17年3月、海軍省は、造船所にさらに30万円を追加して支払い、造船所を、建造中の大和もろとも買収した。このとき、海軍省は、造船所東隣の「加納湾」も一緒に購入して付属ドックとし、「海軍省主船付属小野浜造船所」と称した。海軍省が。造船所と建造中の大和を一括購入した理由は、もし、造船所が倒産すれば、大和建造のため支払い済みの打払金が回収できなくなり、経理手続上面倒なことになることを懸念したためである。
明治23年、小野浜造船所は呉鎮守府の管轄になったが、明治28年6月に閉鎖され(『神戸市史別禄二』)、加納湾は兵庫県に移管された。加納湾は後に埋め立てられて国鉄小野浜駅操車場になり、阪神淡路大震災の後、震災復興記念公園になった。
◆侠商宗七 宗七は国家、社会のために尽くす気概を持った任侠肌の国士的侠商であった。
明治19年9月、内海忠勝兵庫県知事は、宗七の雲中尋常小学校「小野浜分校建築費1千円寄付」を称えて「木盃3組」贈呈し、宗七の死後、明治20年9月、内海知事は、宗七の「布引滝道筋に桜植樹」事業に対し賞状を授与した(『神戸市史本編各説』)。加納湾(『神戸開港百年史 建設編』
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