2016年3月9日水曜日

『豪商 神兵 湊の魁』(7)~海運業の芽生え: 加納宗七~(『セルポート』2016.3.11号)

戸今昔物語(第536号)湊川神社物語(第2部)
      「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(79
     『豪商 神兵 湊の魁』(7)~海運業の芽生え(2):加納宗七~  

 ◆加納宗七  31日号で、海岸通の回送業・加納宗三郎について書いた。宗三郎は加納宗七の三男である。宗七は明治初期神戸の都市改造に大きな足跡を残し、加納町という町名に名を残している。昨年、伝記(松田裕之『加納宗七伝』)も刊行された。開港150年を控え、宗七の偉業をあらためて見直したい。

◆加納宗七の謎  宗七にはいくつかの謎がある。

①商人の宗七がなぜ坂本龍馬殺害犯への襲撃に加わったのか。②宗七はなぜ神戸に来たのか。③財政逼迫の維新政府が、なぜ「生田川付替え」事業費を出したのか。④宗七は生田川付替事業でなにをしたのか。⑤宗七による生田川河川敷跡地の市街地造成事業の特徴は何か。⑥宗七はなぜ避難港「加納湾」を建設したのか。⑦宗七はどんな人物だったのか。

◆宗七と坂本龍馬  紀州藩御用達の材木商人宗七は、同郷の陸奥を通じて、坂本龍馬、勝海舟等の知遇を得た。勝海舟が元治元(1864)年に開設した神戸海軍操練所の塾頭は坂本龍馬で、陸奥宗光(陽太郎)は副長格であった。

◆天満屋騒動  慶應31115日(1867.12.10)、坂本龍馬と中岡慎太郎が京都河原町の近江屋で何者かに殺害された(「近江屋事件」)。22日後の127日(1868.1.1)、京都七條油小路の旅籠天満屋で、紀州藩要人の三浦休太郎が、陸奥宗光、海援隊残党、陸援隊ら総勢16名に襲撃された(「天満屋騒動」)。

襲撃隊と三浦の身辺警護をしていた新選組が、凄惨な死闘を展開した。負傷した三浦は、とっさの機転で、室内の灯りを吹き消し、暗闇の中で「三浦を打ち取った!」と大声で叫んだ。襲撃隊は目的達成と思い込んで退却した。三浦は屋根伝いに逃げて一命をとりとめた。双方に死者と重傷者が出た。

陸奥らが三浦を襲撃した背景に次の事件があった。龍馬暗殺の半年前の423日、海援隊が用船した伊呂波丸が、讃岐沖で、紀州藩蒸気船明光丸と衝突し沈没した。龍馬の恫喝と巧みな交渉の結果、紀州藩が屈辱的な賠償金を支払わされた。「紀州藩の三浦が龍馬を恨んで暗殺した」とのうわさが流れていた。

 宗七も襲撃隊のひとりだった。武芸の心得がない商人の宗七の役割は、資金援助や見張りであった。宗七は襲撃者に一人当たり逃走資金として4両を渡している。

◆宗七、神戸に  天満屋騒動が起きたのは、神戸開港式が行われた日の夜である。

騒動後、宗七は京都を逃れ神戸に花隈に隠棲した。襲撃で深手を負った元海援隊士竹中与三郎の手助けである。与三郎の実家は二つ茶屋村にあった。

騒動2日後、王政復古の大号令が出された。もはや新選組や幕府役人を心配することはない。

宗七が神戸を選んだのは、灘五郷の酒樽需要と、開港場神戸の公共事業による木材需要を見込んだためでもあった。宗七は、海岸通で材木問屋、回漕店、船宿を開いた。

40歳で神戸に来た宗七は、明治20年、海岸通4丁目の自邸で60年の人生を終えた。
 
加納宗七像(神戸市立博物館蔵)
 

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