『豪商神兵港の魁』(37)諏訪山物語
◆神戸英和女学校 「神戸又新日報」(明治19年2月7日号)に「英和女学校の移転」と題し、次のような記事がある。
諏訪山下の神戸英和女学校(後、神戸女学院)は、創立以来10数年が経過し、現在、移転を検討している。もともと、閑静な土地を求めてここに学校を設立したが、その後、周囲が開け、諏訪山山麓に料理屋が建ち並び、学校裏手にまで料亭が迫ってきた。昨今は「絲竹管弦、絶えず同校に聞こゆる」ことになり「生徒の勉学上に関係を及ぼすこと少なからず」。地方出身の寄宿生も多いという同校は、女子の「教育に適当すべき閑静なる土地」を探し「速やかに移転せん」としている。
神戸英和女学校は、明治8年に、米国人女性宣教師ダッドレーとタルカットが、三田藩最後の藩主九鬼隆義の支援を得て、現山本通4丁目に学校を開いた。現在、その場所には神港高校がある。明治27年、英和女学校は神戸女学院と改称し、昭和8年、岡田山へ移転した。岡田山移転に先立ち、英和女学校は明石大蔵谷の丘陵地に広大な土地を購入し、米国人建築家に委託して立派なキャンパス計画が出来上がっていた。けれども、結局、明石大蔵谷キャンパスは実現しなかった。
◆諏訪山 諏訪山はもともと中宮、花隈、宇治野、北野、二つ茶屋村の共有地であった。明治の初め、英国人が諏訪山の麓で鉱泉を発見した。1871(明治4)年頃、小野組が諏訪山を購入した。小野組はこのとき兵庫県の公金取扱機関であった。その後、小野組が破産したため諏訪山は官有地となった。
明治6年、兵庫県が諏訪神社境内3000坪を公園に指定した。
県官関戸由義は、花隈で料亭常盤花壇を経営していた前田又吉に諏訪山の土地を貸与した。又吉は、九鬼隆義から資金援助を受け、明治6年に温泉を開き、常盤花壇を諏訪山に移した。
九鬼が総裁を務める志摩三商会は、副社長小寺泰次郎の天才的手腕で、加納宗七が造成した旧生田川付替え跡地の土地取引等により巨利を得ていたので、開発資金を貸し付ける余裕は十分あった。
「神戸の料亭王」と呼ばれた又吉は、後に京都に進出し常盤ホテルを建設する。常盤ホテルは、明治24年5月に、ロシア帝国ニコライ皇太子の宿舎となる。ニコライは、5月9日大艦隊を率いて神戸に到着し、諏訪山金星台から神戸の眺望を楽しんだ。その後、鉄道で京都へ行き、12日、人力車を連ねて大津へ行き、琵琶湖遊覧を終えて、京都への帰途、警備の警官にサーベルで切り付けられ額に負傷した。日本政府を震撼させた大津事件である。
◆料亭群 カットは、西から常盤楼、福常盤、西川亭、山本、吉田、藤見亭、常盤中店、平谷、藤井亭、春海楼、青梅楼、中村亭、月の家、自在庵、長生亭、常盤東店である。山全体に料亭が建ち並んでいる。
諏訪山遠望(『豪商神兵湊の魁』)
0 件のコメント:
コメントを投稿