2016年4月14日木曜日

『豪商 神兵 湊の魁』(10) 神戸開港効果(1)(『セルポート』2016.4.21号)

神戸今昔物語(第539号)湊川神社物語(第2部)
        「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(82

『豪商 神兵 湊の魁』(10)~開港効果(1)~ 

 ◆神戸と兵庫  『豪商神兵湊の魁』(以下、「魁」)の刊行は明治15年である。開港から15年が経過した神戸は急速に変わりつつあった。世界中から、一獲千金を求めて来住した欧米人貿易商と中国人、国内各地から移住してきた「新住民」が、開港場神戸で、壮大な錬金術ドラマを展開し、神戸はゴールドラッシュの様相を呈していた。

『神戸開港三十年史』は、明治67年から189年までの神戸と兵庫を次のように書いている。

神戸の「新住民」は、「故郷を棄てて新運命を求め」「冒険も恐れず、労苦も辞せざる気力ある者」であり、「眼中には自己あるのみ」「胸中には利己あるのみ」「欲望には銭あるのみ、名誉の如きは問うところにあらず」「燃ゆるが如き貨殖の希望を存す」人たちであった。

西摂随一の商業地の兵庫は目に見える変化は殆どなかった。兵庫の住民は「土着民を以って成り」「依然たる旧職業」「旧社会の旧古格」を守り、「世の風潮に感動するは比較的に遅鈍なりし」であった。兵庫だけに限らず、日本のほとんどの都市は、時代の変化にゆっくりと対応しつつあった。

◆国際都市の予感  開港場神戸と兵庫の違いは「魁」からはっきりと読み取ることができる。神戸では、洋風の生活文化が芽生え、後の「国際都市」神戸を予感させる海運関連業と貿易関連業が定着しつつあった。

◆貿易・金融業  「魁」所載の貿易業、金融業からも兵庫と神戸の違いは一目瞭然である。

神戸には、元町、栄町、海岸通に貿易業が24件、金融業が9件立地していたが、兵庫には貿易業はなく、伝統的な地場業種対象の金融業が4件あっただけである。

元町通は、1丁目に貿易茶商 阪口眞助、両替洋銀売買所 森田常助、3丁目に珍器貿易商、神戸石炭商社、丸三銀行があり、丸越組海外直売店(丁名不明)がある。

栄町通は、3丁目に神戸商義社、神戸石炭商社、貿易商 篠原幸四郎、貿易商 光村弥兵衛、金融業は正金銀行支店、三十八国立銀行、三井銀行支店、七十三国立銀行支店、洋銀売買所 堀儀助、洋銀売買所 荒木、5丁目に医学西洋幷ニキカイ所 志摩三商会、貿易茶 商石本喜兵衛、貿易茶商 川口清次、6丁目に貿易茶商 池田貫兵衛がある。

海岸通は、2丁目に貿易茶商 八田長兵衛、3丁目に五十八国立銀行と貿易会所、廣業商会、貿易茶商 岸善一、貿易商 美吉谷長八があり、4丁目に貿易茶商 田村正平、貿易茶商 山本亀太郎、6丁目に貿易茶商 小島長四郎と製茶改良會社がある。

三宮町には貿易商 大橋正太良、貿易商 大橋正太郎(英文広告)、下山手通6丁目に貿易茶商 高城喜三右衛門が立地している。

一方、兵庫では、貿易業はない。金融業は、川崎町に私立平瀬支店、島上町に六十五国立銀行、戸場町に七十三国立銀行、磯の川に三井支店が立地していた。
「魁」を上掲の「三十年史」等の史料と併せ読むことによって、当時の神戸の様子が生き生きと伝わってくる。

公開講座(神戸近現代史)楠本利夫

神戸近現代史公開講座

講師:楠本利夫 博士(国際関係学)、日本パン学会副会長

1. 神戸山手大学公開講座

・2016年前期(土曜日午後2時~3時半) 
・於:神戸山手大学2号館 JR元町駅北東7分。相楽園西
・有料
・テーマ
57日:「志摩三商会」と三田藩主従たち
521日:「大津事件と神戸」
625日:「海外移住基地神戸」
79日:「加納宗七と生田川付替」
723日:「和田岬物語」
・申込先:神戸山手大学地域連携センター(078-351-4170)

2. 大学共同利用施設UNITY(ユニティ)公開講座

・8月20(土)1400~1530(於:UNITY(神戸市営地下鉄 研究学園都市下車南1分) 
・テーマ:「神戸・パン物語~神戸のパンはいつから全国区になったのか~」
・有料
・申込先:UNITY事務局 TEL 078-794-4970

3. 神戸開港150年/KCC60周年記念 

特別講演会/施設見学会/昼食会(主催:神戸新聞文化センター)
・日時:10月5日(水)1000~1330、19日(水)1000~1330)
・講演:「神戸開港物語」(於:神戸外国倶楽部) 
・施設見学:
  神戸外国倶楽部
  神戸外国人墓地
  神戸レガッタ&アスレティック倶楽部(KR&AC)
・ランチ2回(10月5日:神戸外国倶楽部、10月19日:KR&AC)
・神戸外国人墓地へは専用車で送迎
・有料
・申込先:神戸新聞文化センター 078-265-1100(担当:稲田)

2016年4月5日火曜日

『豪商 神兵 湊の魁』(9)避難港「加納湾」(『セルポート』2016.4.1号)  

            神戸今昔物語(第538号)
『豪商 神兵 湊の魁』(9) 海運業の芽生え(4)「加納湾」
 
◆私費港湾建設  加納宗七は、生田川跡地の市街地整備に続いて、旧生田川尻東側に私財2万円を投じて「船溜」(避難港)を建設した。建設は明治67月に開始し、明治810月に荷揚場と水域面積1.1haの船溜が完成した。

宗七が私費で港湾施設を建設した理由は、明治45月の台風で、和船500隻が破壊され、汽船7隻が海岸に打ち上げられ、海岸通で回船業を営んでいた宗七も被害を受けたからである。

本来、船溜は、国か県が建設すべき施設である。当時の政府は港湾施設を建設する財政的余裕がなかったため、宗七が私費で建設した。

明治66月、宗七は兵庫県令神田孝平に「船溜新築之儀」を提出し722日に許可を受けた。明治810月、宗七は「船溜築港成功御届」を提出した。船溜は宗七にちなんで「加納湾」と呼ばれた。加納湾の建設費を償却するため、宗七は入港船舶から石高に応じて使用料を徴収することとし、1110日、「私費築港概算費御届」を県令に提出し、翌93月、「船口銭取立法願い」が許可された。

◆加納湾と小野浜造船所  明治11年、英国人E.C.キルビーが、小野浜に「キルビー商会造船所」を建設した。キルビー造船所は、E.H.ハンターの大阪鉄工所(後・日立造船)と並び、日本の近代造船所の黎明期に大きな役割を果たした。

キルビー造船所では小型汽船を建造した。明治15年、日本最初の鉄製蒸気船「第一太湖丸」が完成し、さらに、海軍省から、初の鋼鉄製軍艦「大和」の建造を受注した。

明治16年、キルビーが旅先の横浜で突然死した。資金繰りに困った自殺説、突然死説等、死因は現在も謎のままである。海軍省は、大和の建造費の内払金15万円をキルビーに支払済みであった。明治173月、海軍省は、造船所にさらに30万円を追加して支払い、造船所を、建造中の大和もろとも買収した。このとき、海軍省は、造船所東隣の「加納湾」も一緒に購入して付属ドックとし、「海軍省主船付属小野浜造船所」と称した。海軍省が。造船所と建造中の大和を一括購入した理由は、もし、造船所が倒産すれば、大和建造のため支払い済みの打払金が回収できなくなり、経理手続上面倒なことになることを懸念したためである。

明治23年、小野浜造船所は呉鎮守府の管轄になったが、明治286月に閉鎖され(『神戸市史別禄二』)、加納湾は兵庫県に移管された。加納湾は後に埋め立てられて国鉄小野浜駅操車場になり、阪神淡路大震災の後、震災復興記念公園になった。

◆侠商宗七  宗七は国家、社会のために尽くす気概を持った任侠肌の国士的侠商であった。
明治199月、内海忠勝兵庫県知事は、宗七の雲中尋常小学校「小野浜分校建築費1千円寄付」を称えて「木盃3組」贈呈し、宗七の死後、明治209月、内海知事は、宗七の「布引滝道筋に桜植樹」事業に対し賞状を授与した(『神戸市史本編各説』)

                    加納湾(『神戸開港百年史 建設編』