「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(58)
久光宣撫勅使
◆島津久光の動向 西郷の挙兵で、政府は元左大臣島津久光の動きを気にしていた。久光はもともと政府に批判的な姿勢であったからである。久光は西郷を疎んじていた。西郷を重用したのは、久光の異母兄の薩摩藩主島津斉彬である。
◆勅使派遣 久光に勅使を派遣することになった。公家出身外交官の柳原前光(さきみつ)が勅使に任じられた。柳原は、大正天皇の生母柳原愛子の兄で、「白蓮事件」で知られる歌人の柳原樺子(白蓮)の父である。柳原は後に伯爵、元老院議長になる。
護衛として、黒田清隆(陸軍中将)と高島鞆之助(陸軍大佐)が兵700名を率い随行した。黒田も高島も薩摩出身である。
明治10年3月8日、柳原は海路鹿児島に到着した。
柳原は、鹿児島県庁に征討令発布と西郷、桐野、篠原の官位剥奪を通知し、県下における帯刀禁止、「密偵」として拘束されていた薩摩出身の警察官たち「視察団」全員の身柄引き渡しと、県内外国人の引き渡しを求めた。
護衛兵が弾薬を没収し火薬製造所を破壊した。
勅使は「視察団」の身柄を預かり、鹿児島県令大山綱良に東京への同行を命じた。大山は、黒田から「内務卿大久保に西郷の真意を説明するための上京」と伝えられていた。それでも、大山は死を覚悟していた。
◆大山県令逮捕 3月13日、玄武丸が鹿児島を出航した。15日、玄武丸が神戸に着いたとき、乗船してきた篠崎警察課長
が大山に逮捕状を示し、「あなたの上京は、政府命令で差し止めになった」と告げた。大山の隣の黒田の船室は空であった。大山はだまされていたことを知った。
政府は、西郷に同調していた大山を逆賊扱いし、逮捕して処断することを既に決定していた。「大久保に会わせる」は、大山を誘い出すための口実であった。
◆3月15日折田日記 「午後、林内務小輔ヲ加納屋江訪ひしに、無程(ほどなく)、森岡氏も参会す」。内務小輔林友幸は長州出身で、後に元老院議官、枢密顧問官を歴任した。森岡は兵庫県権令森岡昌純である。
「鹿児島県令 大山氏、当夕、勅使柳原と同船上着に付、大山処分、林より森岡江被達たり、大山、此度、西郷等出県聞届けたるとの御届け書面、全く県令不心得之処置との事、依而、裁判相成るとの事」。
◆囚人服で護送 大山はフロックコートに山高帽の正装で、警官に囲まれて船を降り、神戸の裁判所に向かった。裁判所で官位剥奪を宣言された大山は、囚人服に着替えさせられ、神戸から玄武丸で東京へ護送された。9月30日、大山は長崎で斬首された
森岡も薩摩出身であった。寺田屋事件(文久2年)の際、森山と大山らは、久光の命令を受けて「不穏分子」を襲撃した同志であった。その森岡が、兵庫県権令として大山を逮捕する役回りを演じたのである。