神戸京都間鉄道開通式(5) 西南戦争
◆鉄道開通 明治10年の神戸は、新しい時代の到来と、古い時代の終焉を象徴する出来事が起きた年であった。2月5日、神戸京都間鉄道の開通式典が盛大に行われた。その10日後、西郷隆盛が挙兵(西南戦争)し、政府は神戸に戦争制圧の兵站基地(運輸局)を置いた。
明治政府が成立してからすでに10年が経過していた。政府は、政権基盤を安定させるための制度改革とインフラ整備を、一歩一歩、実施してきた。その道のりは決して平たんではなかった。
◆佐賀の乱 神戸京都間鉄道開通の3年前、明治7年5月11日、神戸大阪間が開通した。この年の2月1日、元参議の江藤新平が佐賀で乱をおこした(「佐賀の乱」)。18日、反乱軍は県庁を占領した。内務卿大久保利通は、軍事・刑罰の全権を付与されて現地に赴いた。
湊川神社折宮司田年秀は、日記に「二月十八日、肥前佐賀県士族沸騰の由ニて、兵隊等繰出し相成り候由、姫路辺ニても百姓一揆之情状なり、内務卿大久保佐賀県江参る之由ニて、当港江滞泊也」(ひらがなカタカナ混在)と書いた。3月1日、乱は鎮圧され、江藤は4月13日に斬首された。裁判での江藤の動揺ぶりを大久保は醜態と嘲笑った。
折田も大久保も薩摩出身である。折田は大久保の人間性を冷ややかに見ていた。後に大久保が暗殺されたとき、折田は日記に辛辣な言葉を残した。
◆士族たちの反乱 神戸京都間鉄道開通の前年の明治9年3月28日、政府は士族の帯刀を禁止した(「廃刀令」)。8月5日、政府は、士族の家禄を廃止し、代わりに公債証書を支給することとした(「金禄公債証書発行条例」)。帯刀の名誉を奪われ、生活を脅かされることとなった士族は全国で反発した。ちなみに、札幌農学校が開校したのは、この年の8月14日である。
10月24日、熊本で敬神党(神風連)が決起し、太田黒伴雄が200名を率いて熊本鎮台を襲撃した。熊本県令安岡良亮、熊本鎮台司令長官種田政明らが殺害された(「神風連の乱」)。敬神党は幕末の尊王攘夷思想家の林 桜園を師とする士族集団で、重大な方針を決する際、「宇気比」(うけい)という方法で神慮を仰いでいた。明治7年の「佐賀の乱」の際、宇気比の結果が「否」と出たため、決起を見合わせた。今回は挙兵を「可」とする神託を得ていた。けれども、乱は25日に鎮圧された。
27日、太田黒に呼応して、旧秋月藩士宮崎車之助が230名を率いて挙兵したが、鎮圧された(「秋月の乱」)。
28日、元参議前原一誠が、萩で300名を率いて決起し県庁を襲撃した。10月31日、反乱軍は政府軍と交戦したが敗れ、11月5日、前原は島根県で逮捕された(「萩の乱」)。
◆鹿児島の変動 鹿児島では私学校党が、1月29日から2月2日にかけて、政府の弾薬庫と造船所を襲撃して武器、弾薬を略奪した。折田は、2月12日の日記に「鹿児島県下変動之新聞初而看得、本月一日之変動のミ也」と書いた。