2015年5月25日月曜日

「神戸京都間鉄道開通式(5) 西南戦争」 『セルポート』150521号


神戸京都間鉄道開通式(5) 西南戦争

    
◆鉄道開通  明治10年の神戸は、新しい時代の到来と、古い時代の終焉を象徴する出来事が起きた年であった。25日、神戸京都間鉄道の開通式典が盛大に行われた。その10日後、西郷隆盛が挙兵(西南戦争)し、政府は神戸に戦争制圧の兵站基地(運輸局)を置いた。

明治政府が成立してからすでに10年が経過していた。政府は、政権基盤を安定させるための制度改革とインフラ整備を、一歩一歩、実施してきた。その道のりは決して平たんではなかった。

◆佐賀の乱  神戸京都間鉄道開通の3年前、明治7511、神戸大阪間が開通した。この年の21日、元参議の江藤新平が佐賀で乱をおこした(「佐賀の乱」)。18日、反乱軍は県庁を占領した。内務卿大久保利通は、軍事・刑罰の全権を付与されて現地に赴いた。

湊川神社折宮司田年秀は、日記に「二月十八日、肥前佐賀県士族沸騰の由ニて、兵隊等繰出し相成り候由、姫路辺ニても百姓一揆之情状なり、内務卿大久保佐賀県参る之由ニて、当港滞泊也」(ひらがなカタカナ混在)と書いた。31日、乱は鎮圧され、江藤は413日に斬首された。裁判での江藤の動揺ぶりを大久保は醜態と嘲笑った。

折田も大久保も薩摩出身である。折田は大久保の人間性を冷ややかに見ていた。後に大久保が暗殺されたとき、折田は日記に辛辣な言葉を残した。

◆士族たちの反乱  神戸京都間鉄道開通の前年の明治9328日、政府は士族の帯刀を禁止した(「廃刀令」)。85日、政府は、士族の家禄を廃止し、代わりに公債証書を支給することとした(「金禄公債証書発行条例」)。帯刀の名誉を奪われ、生活を脅かされることとなった士族は全国で反発した。ちなみに、札幌農学校が開校したのは、この年の814日である。

1024日、熊本で敬神党(神風連)が決起し、太田黒伴雄が200名を率いて熊本鎮台を襲撃した。熊本県令安岡良亮、熊本鎮台司令長官種田政明らが殺害された(「神風連の乱」)。敬神党は幕末の尊王攘夷思想家の林 桜園を師とする士族集団で、重大な方針を決する際、「宇気比」(うけい)という方法で神慮を仰いでいた。明治7年の「佐賀の乱」の際、宇気比の結果が「否」と出たため、決起を見合わせた。今回は挙兵を「可」とする神託を得ていた。けれども、乱は25日に鎮圧された。

27日、太田黒に呼応して、旧秋月藩士宮崎車之助が230名を率いて挙兵したが、鎮圧された(「秋月の乱」)。

28日、元参議前原一誠が、萩で300名を率いて決起し県庁を襲撃した。1031日、反乱軍は政府軍と交戦したが敗れ、115日、前原は島根県で逮捕された(「萩の乱」)。

◆鹿児島の変動  鹿児島では私学校党が、129日から22日にかけて、政府の弾薬庫と造船所を襲撃して武器、弾薬を略奪した。折田は、212日の日記に「鹿児島県下変動之新聞初看得、本月一日之変動のミ也」と書いた。

2015年5月23日土曜日

論文「芦屋における大楠公崇敬施設の系譜」(芦屋学研究会紀要 『芦屋の風』第2号 2015.4.20

論文
楠本利夫「芦屋における大楠公崇敬施設の系譜」
(芦屋学研究会紀要『芦屋の風』第2号 2015.4.20

(目次)
はじめに
1 大楠公戦跡碑
(1)大楠公戦跡碑境内の施設
(2)「大楠公戦跡碑略記」の案内板
(3)「斎藤幾太翁像」石碑案内板
(4)大楠公戦跡碑
(5)大楠公戦跡碑の碑文、案内板と打出の合戦

2 大楠公戦跡碑建立の経緯と現況
(1)大楠公戦跡碑の土地現況
(2)大楠公戦跡碑建立
(3)斎藤幾太
(4)大楠公戦跡碑と阪神淡路大震災

3 徳重中堂と打出楠公社
(1)打出楠公社
(2)徳重中堂

4 大楠公戦跡碑と打出楠公社の意義と課題
(1)なぜ芦屋に大楠公崇敬施設が創建されたのか
(2)大楠公戦跡碑の意義
(3)大楠公戦跡碑保存の課題
おわりに

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 『芦屋の風』B5版 173ページ
 価格 1500円(消費税別)

 お問い合わせ先:芦屋学研究会事務局長 若林伸和
  (659-0062)芦屋市宮塚町5-9-205 090-3820-6642 ashiya@office.nifty.jp

2015年5月11日月曜日

『セルポート』とは


『セルポート』

筆者が、「神戸今昔物語」と題して、神戸近現代史紹介シリーズを連載している『セルポート』とは「セルポート社」が発行する行政専門紙です。
同紙の主たる読者は、兵庫県と神戸の幹部です。
発行は月3回(1日、11日、21日)で、定価は毎月1850円(税込)です。

筆者は、1999121日以来、毎号、同紙に連載しています。これまで連載タイトルは「移住坂」「居留地百話」「神戸今昔物語」としてきました。

『セルポート』社の連絡先は次のとおりです。

株式会社セルポート
   神戸市中央区中山手通4丁目22-11
   電話:078-242-1161、ファックス178-242-0900
   Email;selport@memenet.or.jp

2015年5月10日日曜日

「神戸京都間鉄道開通式(4) 式典」『セルポート』150501号


神戸京都間鉄道開通式(4) 式典

 

◆鉄道開通  明治1025日、大阪駅、神戸駅、七条駅(京都)で、神戸・京都間の鉄道開通式典が行われた。

神戸・大阪間は、明治7511日に運転を開始した。

明治97月、大阪・向日町間の工事が完成した。9月には、京都大宮通に仮駅が設けられ、京都・神戸間が開通した。

明治10129日、海路神戸に到着された天皇は、神戸駅から京都駅まで、開通したばかりの鉄道で移動された。

◆開通式典  25日、天皇は午前840分に京都御所を出て、930分に汽車で七条駅を出発し、1030分に大阪停車場に到着された。途中の駅には停車していない。

大阪駅での式典後、天皇は、午前1110分に汽車で大阪駅を出発し、1215分に神戸駅に到着された。天皇到着に合わせて、停泊中の艦船は祝砲を放ち、兵庫県権令森岡昌純と神戸在勤の官庁と停泊中野艦船の奏任官以上がホームで奉迎した。

 式典には、皇族、内閣顧問、宮内卿、大臣、参議、勅任官、奏任官、外国公使、領事、建設関係者等が列席した。居留外国人を代表して、玉座の天皇に、居留地行事局議長の米国領事ネイザン・ニューウイッター(Nasan J. Newwitter)が祝辞を述べた。行事局は外国人居留地の自治機関で、領事、居留民代表、県知事で構成していた。このとき、米国領事館は居留地35番にあった。場所は、現在の地番では西町35で、大丸百貨店の道路を隔ててすぐ南、鯉川筋沿いの区画で、三井神戸ビルに東京スター銀行神戸支店が立地している。

 続いて、兵庫県民を代表して、兵庫県権令森岡昌純が祝辞を述べた。

 午後2時、天皇は、汽車で神戸駅を出発し、京都駅に午後4時に到着し、駅内での式典に臨まれた。太政大臣三條実美が祝辞を述べた。

鉄道開通の勅語は「西京神戸間鉄道工竣ルヲ告ク朕親臨シテ開業ノ典ヲ行フ汝百官拮据経営此工事ヲ完成シ衆庶ト興ニ慶祝スル事ヲ得ル朕深ク之ヲ嘉尚ス」である。

 「東京日日新聞」(26日号)は「此日は昨夜よりの雪にて、道路も殊に悪しかりしが、遠近より此盛典を拝見せんと両三日前より、西京、大坂、兵庫ともに集り来る者は幾百万と云う数を知らず、何処も人の山を成して其賑やかなること前古に比類なしと謂うべし」と報道した。

214日付の同紙は、「京都より兵庫の辺まで、二三里の間は、処として国旗の翻へざる地も無く、軒ごとに紅灯を点し、或は種々の造り物を出し杯して、礼服高帽の欣々然と馳せ回る有様は、いかにも目出たき景色なり」と書いた。

◆折田の式典見物  折田も式典見物に行った。この頃、折田は妻の染の言動に辟易していたが、病み上がりで体力に自信がなかったので、妻を同伴させた。

「二月五日晴、 

 一、当日は本所幷ニ大阪西京鉄道開業式御執行ニ付、聖上御臨御、第十二時ヨリ相初リ候事、

病中ニ付家内共拝見ニ差出候事、

   一、本日者、兵庫・神戸大ニ賑ヒ、人民親シク奉拝龍顔候」

「神戸京都間鉄道開通式(3) 折田宮司の憂鬱」『セルポート』150421号


神戸京都間鉄道開通式(3) 折田宮司の憂鬱

 

◆折田の風邪  明治10128日、明治天皇が神戸に行幸された。

 折田は風邪で115日から寝込んでいたが、この日、早朝から宗教関係者100余名を率い、栄町の道路に整列して、騎馬で行進する天皇を出迎えた。 

 23日、折田の体調は回復し、日記に「病気快気に付、臥床ヲ沸候事」と書いた。

◆鉄道開業式  25日は神戸京都間の鉄道開通式である。天皇は、京都,大坂、神戸の各駅での式典に臨御された。

折田は、病み上がりで体力に自信がなかったので、式典見物に夫人を随行させた。

 「二月五日、晴、当日ハ、本所、幷ニ、大阪西京鉄道開業式御執行ニ付、聖上御臨御、第十二時ヨリ相初リ候事、病中に付、家内共拝見ニ差出候事」(読みやすくするため、句読点を追加した)。 

◆折田の憂鬱  28日、折田は、「死」を決意した。

「二月八日晴 一、此内より染事、諸事疑念ヲ生シ、一日トシテ苦情ナキハナシ、病床中、甚以困難ニ不堪、心中如掣、仍而、死ヲ一決シテ、滋養食、薬品を拒絶し、終日平静専ラ神ニ禱リ、夙ニ死去センコトヲ祈念シ、終日黙座セリ」。

、折田夫人の染が、諸事に「疑念」を持って折田に苦情を言わない日がなく、病床の折田は、それが耐えがたく不快であるため、死を決意し、滋養食と薬を拒否して、終日平城に神に祈り、できるだけ早く死ぬことを祈念して、終日、黙坐していた、と書いているのである。

日記には具体的な事情は書いていない。折田はなぜ死を決意したのか。

29日、「終日黙座、神明ニ死ヲ祈ル耳」。

10日、折田は午睡中、突然、神託を得た。「二月十日、晴、一、本日、午後二時、午睡之処、不図神託ヲ得タリ、大丈夫、一婦人之為ニ死スルトハ何事ソ、苟も意ニ適セさる有ラハ、離別暇ヲ出シ可然ト、仍而大ニ諭リ直ニ起上リ、神拝奉謝、且ツ、染エモ、云々申付ケ、爾来ハ、親元江可差返旨厳敷相達シ、是ヨリ実ニ薬用等ニ掛る」。日記は、送り仮名はカタカナとひらがなが混在している。

神託は「一人の「婦人」のために折田自身が死ぬとは、なにごとか。妻の染に、少しでも折田の意にそぐわないところがあるのなら、離別するのが当然である」というものであった。折田は直ちに起き上がり、神に感謝し、染に対し、親元へ返す旨厳しく申しつけた。

日記に「婦人之為に死する」と書いていることに注目したい。「婦人」とは誰か。「婦人」のことで、染が嫉妬して折田に苦情を言ったのかもしれない。染が心の病気であった可能性も考えられないではない。

結局、折田は染を故郷鹿児島に返すことにした。214日、「(略)染、竝ニ、芳、帰県ニ決定ス」。「芳」とは誰か。染のお世話をする女性召使と考えられる。

◆西南戦争  鹿児島では、西郷隆盛が挙兵し、風雲急を告げていた。鹿児島出身の折田は気が気でなかった。「二月十二日、晴」「鹿児島県下の変動之新聞初而看得、本月一日の変動ノミ也」。

「神戸京都間鉄道開通式(2) 折田宮司の出迎え」『セルポート』150411号


神戸京都間鉄道開通式(2)
湊川神社折田宮司の出迎え

 

◆天皇到着  明治10128日午前630分、湊川尻で3発の信号が打ち上げられた。天皇が乗った高尾丸が神戸沖に到着したことを知らせる、見張り役からの合図である。

折田は115日以来、風邪をひいて体調がよくなく、連日、日記に「病中引入」と書いていた。それでも、折田は、直ちに礼服に着替えて、湊川神社境内で待機させていた神官、僧侶たち100名余を引率して神社を出発した。天皇を迎えるための整列場所は、あらかじめ、兵庫県と取り決めた「栄町通5丁目と6丁目の間」の道路沿いである。海軍兵士が最前列を警備した。栄町は明治6年末に完成し、明治7年に繁栄を願って「栄町」と命名されていた。

◆神戸郵便局  行幸目的は「神武天皇陵御参拝並に孝明天皇十年祭御親祭」であった。天皇は神戸から、京都、大和へ行幸される予定であった。

 当初、行在所は神戸郵便局と決められていた。神戸郵便局は、栄町の西端の栄町6丁目にあった。現在と同じ場所である。当時、天皇が宿泊できるホテルや旅館はまだなかったため、公共施設、寺院、富豪の自宅等が行在所になることが多かった。

横浜から神戸への航海中、荒天を避け、鳥羽に寄港して上陸して宿泊したため、神戸到着が1日遅れた。結局、神戸での宿泊は中止となった。

 午前9時、天皇は高尾丸から端船に乗り移り波止場を目指した。910分に鯉川尻の「第三波止場」に到着し上陸した。第三波止場は、アメリカ領事館の前にあったため、「メリケン波止場」と呼ばれた。アメリカは、慶応311月に神戸に仮領事館を開設した。

郵便局までのルートは現在の鯉川筋と栄町通である。騎馬の天皇を、沿道で、大阪鎮台の兵隊、小学生、住民が整列して奉迎した。郵便局到着は921分であった。

午後220分、天皇は騎馬で郵便局を出発した。午後227分、神戸駅から汽車で京都へ向った。神官、僧侶たちは、多聞通2丁目に整列して汽車を見送った。

午後4時、奉幣使式部助丸莞爾が湊川神社に参拝した。

緊張の1日が終わった。折田は日記に「上都合なり」と書いた。

◆京都での日程  

129日は東本願寺へ行幸、30日は「後月輪東山陵」において「孝明天皇十年御式年祭御親祭」を執行された。31日から24日まで、京都府庁、裁判所、博物館、中学校、製薬会社、女学校、女紅場(女子への読み書き、そろばん、手芸等の教育機関)、牧畜場、勧業院、織物工場、舎密局、加茂神社、寒天製造所、華族会館分局等へ行幸された。25日は、京都、大阪、神戸で京都神戸間鉄道開通式である。

当初の予定では、その後、天皇は大和に行幸し、221日に、再び、神戸から海路横浜経由で東京へ帰ることとなっていた。けれども、215日に、西南戦争が勃発したため、急きょ予定を変更し、そのまま京都に滞在することになった。

神戸に、西南戦争制圧のための兵站基地「運輸局」が設置された。

「神戸京都間鉄道開通式(1)」 『セルポート』150401号


神戸京都間鉄道開通式

 

◆明治10年の神戸  明治の神戸の出来事を、年ごとに、折田年秀日記とからめて紹介する予定が、パン学会設立を契機に脱線してしまった。

 閑話休題。

 明治10年は神戸にとり特筆すべき年であった。第1は、神戸京都間の鉄道開通である。第2は、西南戦争の勃発で、神戸が戦争制圧の兵站基地になったことである。政府は神戸に運輸局を置いた。第3は、開港から10年が経過して、神戸の経済力がほぼ兵庫に拮抗するまでに発展したことである。開港した神戸の経済力が、わずか10年で伝統ある兵庫と肩を並べたのである。以後、兵庫と神戸の格差は広がるばかりであった。

◆鉄道開通式  明治1025日、神戸京都間鉄道の開通式が行われた。この日、天皇は京都と大阪で、それぞれ開通式典に臨席した後、1215分に神戸に到着された。神戸での開通式の模様は後に詳述する。

 明治天皇の第1回神戸行幸は、明治576日である。天皇は、近畿・九州・四国行幸の帰途、丸亀から軍艦龍驤で神戸に到着された。8日には完成したばかりの湊川神社へ行幸予定であった。ところが、当日、暴風雨のため行幸は中止になった。

 次の神戸行幸は、明治10年、孝明天皇10年祭の大和・京都行幸である。

 424日に東京を出た天皇は、横浜からお召艦高尾丸で神戸に向かった。神戸には26日に到着する予定であったが、途中、海上の波が高かったため、高尾丸は、鳥羽港に緊急避難し、天皇は上陸して常安寺に宿泊された。

 27日、天皇は高尾丸に乗り鳥羽港を出港して、船中泊し、28日午前7時、神戸に到着された。

◆折田宮司の体調  天皇を迎える神戸は緊張感がみなぎっていた。

 折田宮司は湊川神社だけでなく、近隣の神官、僧侶を引き連れて天皇を出迎える手はずになっていた。

 あいにく、このころ、折田は、風邪で寝込んでしまった。115日、折田は日記に「風邪にて引入」と書いた。風邪は長引いて、16日、17日、18日、19日と寝込み、20日に医師に来診してもらった。

 22日の日記には、天皇の出発が遅れる旨の連絡があったことと、天皇は、今日鳥羽を出発され、24日に神戸に到着予定、と書いている。

 124日、折田は、午前5時に起床し、礼服を着て波止場の貿易会社へ行き、兵庫県参事とともに、天皇到着時の奉迎体制を確認した。突風のため昨日は志摩の鳥羽港に停泊したとの電信が入っていて、行在所では、お召船が視界に入ったら、湊川尻で合図の花火を3発上げることになっていると聞いて退出した、と日記に書いた。この行幸の行在所は神戸郵便局である。

 125日、「病中引入、午後ヨリ盛岡権令見得タリ」。25日、「病中引入」。相変わらず折田の体調はよくなかった。

 5年前の第1回神戸行幸の際、折田はまだ宮司に発令されていなかった。今回は折田の初めての晴れ舞台である。それなのにこの体調とはなんたることか。折田は嘆いた。