神戸今昔物語(通産第485号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(28)
神戸ホーム(明治8年)
◆2人の女性宣教師 明治6年3月31日、2人の米国人女性宣教師が神戸に上陸した。後に神戸の歴史に名を残すこととなる2人である。
その15日前の3月16日、一人の男が、鹿児島から大阪経由で神戸に到着した。後に湊川神社初代宮司となる薩摩藩士折田年秀(48歳)である。
◆神戸ホーム 女性宣教師は、米国アメリカン・ボード(米国の超教派的な海外伝道組織)から神戸に派遣されたイライザ・タルカット(Eliza Talcott、36歳)とジュリア・ダッドレー(Julia E.Dudley、33歳)である。2人は。着任2年7か月後の明治8年10月12日に、山本通に「神戸ホーム」を創立した。神戸で初の女学校である。設立には三田藩の元藩主九鬼隆義とその家臣たちが協力した。神戸ホームは、明治12年に英和女学校、明治27年に神戸女学院と改称し、昭和8年に西宮市岡田山に移転した。
◆折田の上京 明治6年3月13日朝、折田は、三邦丸に乗り鹿児島を出発した。自身の湊川神社初代宮司就任を各方面に働きかけて実現するためである。
3月14日、大阪に到着した折田は、大阪、京都、神戸の知人を訪問し協力を依頼した。
3月18日、折田は湊川神社に参拝した。神社は前年の明治5年5月25日に、全国からの寄付と地元の勤労奉仕で創建されていた。宮司はまだ決まっていなかった。この日、午後5時半、折田は米国船オレゴニア号に乗り、横浜経由で東京へ向った。
思えば、折田が島津久光を通じて、楠木正成を祀る神社の摂津湊川への創建を朝廷に建言したのは9年前の1864年であった。その後、明治維新を経て社会が激変した。
折田は東京で、西郷隆盛、松方正義、渋沢栄一らの支援を受けて精力的に猟官運動を展開した。明治6年5月、折田は教部省から湊川神社宮司への発令を受け。同時に、教導職「大講義」に任命された。教導職の任務は住民に神道を教えることと、キリスト教布教状況の調査である。折田は兵庫県内のキリスト教布教活動を監視することとなった。
◆切支丹禁制の高札撤去 切支丹禁制の高札は、2人の女性宣教師が神戸に上陸する約1か月前の2月24日に撤去されていた。欧米訪問中の岩倉具視に、米国が布教禁制政策を抗議し、岩倉から報告を受けた政府が、条約改正に障害があるとして撤去したのである。
撤去された切支丹禁制高札はつぎの内容であった。
「一、切支丹宗門之儀ハ是迄御制禁之通固ク可相守候事
一、邪宗門之儀ハ固ク禁止之事
慶応四年 太政官」
明治6年2月24日の太政官布告は、「従来高札面ノ儀ハ、一般熟知ノ事ニ付、向後取除可申事」であった。キリシタン禁制は既に一般に知られているから高札を撤去するという内容である。高札は撤去したけれども、政府はキリスト教布教に神経をとがらせていた。我が国の国是である神道の教義とキリスト教精神が相いれないと考えていたからである。