2014年8月27日水曜日

「神戸ホーム」(明治8年) 「折田年秀日記」(『セルポート』2014.9.1号)


神戸今昔物語(通産第485号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(28

 

神戸ホーム(明治8年)

 

2人の女性宣教師  明治6331日、2人の米国人女性宣教師が神戸に上陸した。後に神戸の歴史に名を残すこととなる2人である。

その15日前の316日、一人の男が、鹿児島から大阪経由で神戸に到着した。後に湊川神社初代宮司となる薩摩藩士折田年秀(48歳)である。

◆神戸ホーム  女性宣教師は、米国アメリカン・ボード(米国の超教派的な海外伝道組織)から神戸に派遣されたイライザ・タルカット(Eliza Talcott36歳)とジュリア・ダッドレー(Julia E.Dudley33)である。2人は。着任27か月後の明治81012日に、山本通に「神戸ホーム」を創立した。神戸で初の女学校である。設立には三田藩の元藩主九鬼隆義とその家臣たちが協力した。神戸ホームは、明治12年に英和女学校、明治27年に神戸女学院と改称し、昭和8年に西宮市岡田山に移転した。

◆折田の上京  明治6313日朝、折田は、三邦丸に乗り鹿児島を出発した。自身の湊川神社初代宮司就任を各方面に働きかけて実現するためである。

314日、大阪に到着した折田は、大阪、京都、神戸の知人を訪問し協力を依頼した。

318日、折田は湊川神社に参拝した。神社は前年の明治5525日に、全国からの寄付と地元の勤労奉仕で創建されていた。宮司はまだ決まっていなかった。この日、午後5時半、折田は米国船オレゴニア号に乗り、横浜経由で東京へ向った。

思えば、折田が島津久光を通じて、楠木正成を祀る神社の摂津湊川への創建を朝廷に建言したのは9年前の1864年であった。その後、明治維新を経て社会が激変した。

折田は東京で、西郷隆盛、松方正義、渋沢栄一らの支援を受けて精力的に猟官運動を展開した。明治65月、折田は教部省から湊川神社宮司への発令を受け。同時に、教導職「大講義」に任命された。教導職の任務は住民に神道を教えることと、キリスト教布教状況の調査である。折田は兵庫県内のキリスト教布教活動を監視することとなった。

◆切支丹禁制の高札撤去  切支丹禁制の高札は、2人の女性宣教師が神戸に上陸する約1か月前の224日に撤去されていた。欧米訪問中の岩倉具視に、米国が布教禁制政策を抗議し、岩倉から報告を受けた政府が、条約改正に障害があるとして撤去したのである。

撤去された切支丹禁制高札はつぎの内容であった。

「一、切支丹宗門之儀ハ是迄御制禁之通固ク可相守候事

 一、邪宗門之儀ハ固ク禁止之事 

     慶応四年  太政官」

明治6224日の太政官布告は、「従来高札面ノ儀ハ、一般熟知ノ事ニ付、向後取除可申事」であった。キリシタン禁制は既に一般に知られているから高札を撤去するという内容である。高札は撤去したけれども、政府はキリスト教布教に神経をとがらせていた。我が国の国是である神道の教義とキリスト教精神が相いれないと考えていたからである。

2014年8月6日水曜日

「前島密設計の初代神戸郵便局舎」『セルポート』140811号


前島密設計の神戸郵便局庁舎完成(明治8年)

 
◆神戸郵便局新局舎  明治811日、「神戸郵便役所」は「神戸郵便局」と改称された。5月、栄町6丁目に新局舎が完成した。当時は洋館が珍しかったので、地方から弁当を持って見学に来る人も多かった。

局舎は「日本郵便の父」前島密が設計した。前島は、兵庫奉行柴田剛中の補佐役として、神戸開港準備、居留地建設等に従事した。明治212月、前島は民部省九等出仕を拝命し、翌明治35月、租税権正兼駅逓権正(駅逓司長官)となり、郵便制度の近代化に着手することになる。

「郵便局の建築図案などは、誰一人知っている者がないので、私が自身図案者ともなり、監督者ともなって、そのため長崎まで奔走した」と前島は当時を懐古し、明治101月、神戸郵便局が明治天皇行在所となったとき「私は無上の光栄だと感じた」(『郵便創業談』)。

◆明治天皇2度目の神戸行幸  明治101月、天皇が「大和国並京都」に行幸された。当初予定は、124日にお召艦高尾丸で横浜を出航し、神戸に26日に到着し、行在所神戸郵便局に宿泊されこととなっていた。

高尾丸は予定どおり横浜を出航した。途中、波浪のため、予定を変更し、天皇は、三重県鳥羽に上陸して常安寺に宿泊された。

27日、高尾丸は鳥羽を出航し28日午前7時に神戸に到着した。停泊中の艦船から一斉に祝砲が発せられた。天皇は端船に乗り移り、三番波止場から上陸し、神戸郵便局へ騎馬で向われた。沿道には小学生と大阪鎮台兵が整列して奉迎した。天皇は921分、郵便局に到着された。予定が1日遅れたため、神戸郵便局での宿泊は取りやめとなった。

予定変更は関係者を困惑させた。通信手段が未整備であったからである。神戸電信局は明治38月に新設されていたが、電話の開通は、明治26325日の神戸電話交換局開設を待たなければならなかった。

神戸郵便局は、局舎が行在所となったため、1月21日から弁天浜の三井組事務所(三井組銀行)に臨時移転し業務を行った。場所は現在のハーバーランドの神戸市産業振興センター東側である。職員一同、局舎が行在所になったことを非常に光栄に思い喜んだ。

◆「折田日記」  「一月廿八日、晴。午前第六時三十分、於湊川尻打掲(揚)ケ三発、追々砲号に付、直に礼服、当社御門前ニて、諸神官教職を指揮シテ、直ニ繰出」。

午前630分、湊川尻から、高尾丸到着を知らせる合図信号が打ち上げられた。号砲が続いた。礼服の折田は、湊川神社正門前に待機させていた神官と教導職総勢100余名を引き連れて、県庁との事前打ち合わせどおり、栄町5丁目と6丁目に整列させた。「前面ハ海軍ヲ以テ警衛ス」。神官と教導職は、海軍兵士の後ろで並んで奉迎した。

この日、式部・助丸莞爾が湊川神社に参拝し幣帛を奉納した。

午後220分、天皇は騎馬で郵便局を出発し、神戸駅227分発の特別列車で京都へ向かわれた。            

「短銃を携帯する郵便脚夫」『セルポート』2014.8.1号

神戸今昔物語(通産第483号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(26

 
明治8年の神戸(短銃を携帯する郵便脚夫)

 
◆郵便脚夫の短銃  明治837日、「駅逓寮大阪出張」が「郵便物保護のため神戸郵便局の脚夫に短銃を携帯させる」旨兵庫県に連絡した。駅逓寮大阪出張は現在の日本郵政公社近畿支社にあたる。なぜ、郵便脚夫が短銃携帯なのか。

◆天秤棒で運んだ神戸・有馬間の郵便物  明治、大正頃、神戸・有馬間の郵便物運送は「勉栄組」という団体が請け負っていた。運送員は天秤棒の両端に郵袋をくくりつけ、肩に担いで徒歩で運んでいた。神戸郵便局を午前2時ごろ出発した運送員は、途中、数か所の局に立ち寄り、午後になって有馬に到着する。その日は有馬泊まりである。翌朝未明、有馬を発って神戸に帰る配達員は、途中で、有馬へ向うもう一人の運送員とすれ違う。

「草木も眠る丑三つ時」の神戸出発である。有馬まで34キロ、真っ暗な山道を、提灯の灯りを頼りに一人で行く。途中、狐、狸、猪も出没する。危険なのは、郵便物や為替を狙う人間である。配達員は短銃を具備し自衛することとなった。運送手段は、その後、騎馬便、鉄道便(集配員が護送)、自動車便と、時代とともに変遷した。

◆神戸の郵便の歴史  我が国の郵便制度は、前島密が創設した。明治431日、東京・大阪間の新式郵便取扱が始まった。

814日、神戸郵便役所が浜宇治野町に設置された。1210日、神戸・大阪間に13回の汽船便による郵便物運送が開始された。神戸運上所内に郵便仮役所が開設され、業務を開始した。1219日、神戸に初めて郵便箱(ポスト)が設置された。

明治5225日、神戸郵便役所は、市場町(現元町通6丁目)に民家を買いあげ移転した(土地37)。神戸運上所内の仮役所は廃止された。31日、海外郵便を開始した。81日、横浜・神戸間に12回の郵便運送が始まった。121日、大阪から兵庫、神戸、堺へ12回の郵便を開始した。

明治641日、郵便料金の全国均一制が実施された。514日、神戸・大阪間の鉄道による郵便物逓送の試行を始めた。81日、神戸、兵庫に郵便切手売捌所が6か所設置された。

明治7215日、兵庫県下の郵便線路を開設した。

511日の神戸・大阪間鉄道の仮営業開始に伴い、514日、12回の郵便逓送を開始した。1231日、慶応3年から神戸に設置されていたアメリカ郵便局撤退した。

明治811日、「神戸郵便役所」が「神戸郵便局」と改称され、為替事務を開始した。15日、横浜、神戸、長崎の郵便局で外国郵便を開始した。37日、駅逓寮大阪出張が、兵庫県に「神戸郵便局の脚夫に短銃を携帯させる」旨の内務省通達を送付した。

51日、市内栄町6丁目に新局舎が竣工し、駅逓寮出張神戸郵便局と改称した。81日、貯金事務を開始した。

参考文献 『百年史 神戸ゆうびんの道順』(昭和49年)、『神戸開港三十年史 乾』(明治31年、復刻版 昭和41年)