神戸今昔物語(通産第474号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(17)
折田の湊川神社への赴任(2)
◆折田の赴任 明治6年8月1日、折田は湊川神社に赴任するため、汽車で東京を発ち、横浜から船に乗った。8月3日午前11時、大阪へ着いた折田は、松島から川蒸気に乗り換え神戸に向かった。神戸に到着した折田は、その足で湊川神社に赴き、翌4日、湊川神社で初祝詞をあげた。
折田が赴任した頃の開港場神戸はどのような状況だったのか。
◆堺の代替に兵庫が開港場に 安政元(1854)年、幕府は日米和親条約を締結した。安政3年、ハリス総領事は下田に領事館を開き、翌4年、江戸を訪れて幕府に通商の要を説いた。ハリスと幕府代表の井上清直、岩瀬忠震(ただなり)は、12月11日から翌5年1月12日まで、15回の日米通商条約協議を行った。
ハリスが提示した開港場草案は、箱館、大坂、長崎、平戸、京都、江戸、品川等であり、兵庫は挙がっていない。ハリスは京都と大坂の開港を強く迫った。幕府は、天皇の居所である京都とその玄関口の大阪は開港できない拒否し、替わりに堺の開港を提示した。万一、堺が開港できない場合の予備として初めて兵庫の名を挙げた。条約では外国人が自由に動ける「外国人遊歩区域」(半径10里以内)が定められ、堺は遊歩区域内に御陵があるため開港できなかった。
安政5年、幕府は日米修好通商条約を締結し、開港場は、横浜、長崎、箱館、新潟、兵庫、開市場は江戸と大坂と取り決められた。続いて、幕府は列強と同内容の条約を締結した(「安政五か国条約」)。
◆和田岬から駒ヶ林が居留地の候補地に 開港場とは、外国貿易船が入港し、外国人が外国人居留地に居住し貿易等を行う場所である。開港場には外国人居留地を建設しなければならない。
文久元(1861)年4月、英国オールコック公使が、船で兵庫に立寄り、開港場予定地の兵庫を視察した。公使は、「宿泊所の近くに海浜があり、水際から徐々に高くなっていて、将来外国人居留地を建設するには好適な場所」と書いている。
兵庫開港で、居留地は、和田岬以西、駒ケ林村(妙法寺尻)までの海岸沿いの土地(7万坪)が候補地に挙がった。
◆兵庫の代替に神戸が開港場に
幕末、兵庫は西国街道の宿場町、物資の集散地として栄えていたため、住民は開港による変革を嫌がった。
兵庫から東へ3・5km、神戸村海岸の広大な畑地と砂浜を、幕府は居留地建設適地と判断し、神戸を開港場とすることとした。慶応3年(1867)4月13日、幕府は、英米仏の公使と「兵庫大坂規定書」取り交わし、居留地を神戸に設置することと、開港予定日を取り決めた。
◆神戸開港 慶応3年12月7日(1868年1月1日)、神戸は開港した。横浜、長崎、箱舘に9年遅れの開港である。居留地は神戸村の海岸に建設された。各国は神戸に領事館を開設し、外国人貿易商が商館を構えた。
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