神戸学公開講座
第3回「神戸弁天浜明治天皇御用邸~大津事件のもう一つの舞台~」
とき 2014.6.7(土)1400~1530
ところ 神戸山手大学3号館(相楽園西隣)
講師 楠本利夫(芦屋大学客員教授)
会費 1200円
問合わせ 078-351-7170(神戸山手大学)
2014年5月25日日曜日
2014年5月18日日曜日
公開講座 「神戸開港物語~米英提督の遭難/備前藩兵と外国軍隊の衝突(神戸事件)~」(2014.5.24、於:神戸山手大学)
神戸学公開講座
第2回「神戸開港物語~米英提督の遭難/備前藩兵と外国軍隊の衝突(神戸事件)~」
とき 2014.5.24(土)1400~1530
ところ 神戸山手大学3号館(相楽園西隣)
講師 楠本利夫(芦屋大学客員教授)
会費 1200円
問合わせ 078-351-7170
第2回「神戸開港物語~米英提督の遭難/備前藩兵と外国軍隊の衝突(神戸事件)~」
とき 2014.5.24(土)1400~1530
ところ 神戸山手大学3号館(相楽園西隣)
講師 楠本利夫(芦屋大学客員教授)
会費 1200円
問合わせ 078-351-7170
2014年5月7日水曜日
折田の赴任(3)「折田年秀日記」(『セルポート』2014.5.1号)
神戸今昔物語(通産第475号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(18)
折田の赴任(3)
◆折田赴任 明治6年8月3日、湊川神社初代宮司折田年秀が着任した。開港から6年、開港場神戸は著しい変貌を遂げつつあった。
以下、折田赴任前後の神戸の様子を概観したい(明治5年12月2日以前は、太陰暦の月日である)。
◆慶応3年:
・12月7日、神戸開港式(1868.1.1)。米・英、神戸に領事館開設。9日、王政復古の大号令。10日、Hyogo
& Osaka Herald発刊。
◆慶応4年/明治元年:
・1月3日、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争勃発。1月11日、「神戸事件」(備前藩兵と外国軍の衝突)。15日、勅使東久世通禧、神戸で各国公使に王政復古を告げる。22日、「兵庫鎮台」設置、東久世が総督に。
・2月2日、兵庫鎮台を「兵庫裁判所」に改称。9日、瀧善三郎、神戸事件の責任をとらされ兵庫永福寺で切腹。2月、貿易五厘金徴収開始。
・3月22日、兵庫裁判所役人6人が東久世経由で朝廷に楠社造営請願。
・4月3日、楠公墓に「楠木正成への神号付与・社壇造営」の高札。21日、明治天皇、楠社創建に千両下賜。27日、和田岬灯台仮点灯。4月、大阪神戸間に蒸気船就航、貨客輸送開始。
・5月18日、戊辰戦争終結。23日、兵庫裁判所を廃止し「兵庫県」設置、伊藤俊輔初代知事に。切戸町に県庁舎。
・6月10日、私学「明親館」開校。19日、「兵庫大阪居留地条例」成立。26日、居留地工事竣工。6月、坂本村に兵庫県新庁舎着工。
・7月24日、居留地(永代借地権)第1回競売(36区画)。
・8月、「兵庫大阪居留地条約細目」成立。メリケン波止場完成。「神戸洋学伝習所」開学。
・9月8日、明治に改元。18日、兵庫県新庁舎開庁式。
・11月、二つ茶屋村、走水村、神戸村を合併し「神戸町」成立。湊川に架橋。
・この年、英国人キルビーが海岸通に屠場設置。フランス人ムニク-が元町に礼拝堂設置。仏・蘭・独・デンマークが領事館開設。兵庫神戸の人口2万5千人。外国人7か国470人。
◆明治2年:
・1月、「外国人遊歩規定」成立。
・4月20日、神戸病院開院式、米国人医師が診療。21日、居留地第2回競売(25区画)。
・この年、花隈に写真館、元町6丁目に牛鍋屋「関門月下亭」、北長狭通に西洋料理店「外国亭」、三宮付近に靴店開業。
◆明治3年:
・1月3日、大教宣布の勅令。1月、人力車が大坂から伝来。1月頃、政府監督の廻漕会社が、東京・横浜~大坂・神戸間定期航路開設(月3便)。
・3月、金沢藩が製鉄工場を川崎浜に開設。
・4月16日、居留地第3回(60区画)競売。
・7月6日、大坂神戸間鉄道着工。
・この年、工部省が金沢藩とツレジング商会の製鉄所を買収し兵庫造船所とする。米4番館が、横浜・神戸・長崎・上海航路開始。米国宣教師グリーンが、居留外国人への礼拝開始。居留地に天主教堂完成。兵庫の名士神田兵右衛門、藤田積中ら洋服を率先着用し範を示す。
折田の赴任(2)「折田年秀日記」(『セルポート』2014.4.21号)
神戸今昔物語(通産第474号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(17)
折田の湊川神社への赴任(2)
◆折田の赴任 明治6年8月1日、折田は湊川神社に赴任するため、汽車で東京を発ち、横浜から船に乗った。8月3日午前11時、大阪へ着いた折田は、松島から川蒸気に乗り換え神戸に向かった。神戸に到着した折田は、その足で湊川神社に赴き、翌4日、湊川神社で初祝詞をあげた。
折田が赴任した頃の開港場神戸はどのような状況だったのか。
◆堺の代替に兵庫が開港場に 安政元(1854)年、幕府は日米和親条約を締結した。安政3年、ハリス総領事は下田に領事館を開き、翌4年、江戸を訪れて幕府に通商の要を説いた。ハリスと幕府代表の井上清直、岩瀬忠震(ただなり)は、12月11日から翌5年1月12日まで、15回の日米通商条約協議を行った。
ハリスが提示した開港場草案は、箱館、大坂、長崎、平戸、京都、江戸、品川等であり、兵庫は挙がっていない。ハリスは京都と大坂の開港を強く迫った。幕府は、天皇の居所である京都とその玄関口の大阪は開港できない拒否し、替わりに堺の開港を提示した。万一、堺が開港できない場合の予備として初めて兵庫の名を挙げた。条約では外国人が自由に動ける「外国人遊歩区域」(半径10里以内)が定められ、堺は遊歩区域内に御陵があるため開港できなかった。
安政5年、幕府は日米修好通商条約を締結し、開港場は、横浜、長崎、箱館、新潟、兵庫、開市場は江戸と大坂と取り決められた。続いて、幕府は列強と同内容の条約を締結した(「安政五か国条約」)。
◆和田岬から駒ヶ林が居留地の候補地に 開港場とは、外国貿易船が入港し、外国人が外国人居留地に居住し貿易等を行う場所である。開港場には外国人居留地を建設しなければならない。
文久元(1861)年4月、英国オールコック公使が、船で兵庫に立寄り、開港場予定地の兵庫を視察した。公使は、「宿泊所の近くに海浜があり、水際から徐々に高くなっていて、将来外国人居留地を建設するには好適な場所」と書いている。
兵庫開港で、居留地は、和田岬以西、駒ケ林村(妙法寺尻)までの海岸沿いの土地(7万坪)が候補地に挙がった。
◆兵庫の代替に神戸が開港場に
幕末、兵庫は西国街道の宿場町、物資の集散地として栄えていたため、住民は開港による変革を嫌がった。
兵庫から東へ3・5km、神戸村海岸の広大な畑地と砂浜を、幕府は居留地建設適地と判断し、神戸を開港場とすることとした。慶応3年(1867)4月13日、幕府は、英米仏の公使と「兵庫大坂規定書」取り交わし、居留地を神戸に設置することと、開港予定日を取り決めた。
◆神戸開港 慶応3年12月7日(1868年1月1日)、神戸は開港した。横浜、長崎、箱舘に9年遅れの開港である。居留地は神戸村の海岸に建設された。各国は神戸に領事館を開設し、外国人貿易商が商館を構えた。
湊川神社への赴任「折田年秀日記」(『セルポート』2014.4.11号)
神戸今昔物語(通産第473号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(16)
折田の赴任
◆折田の湊川神社赴任 明治6年8月1日午前11時、折田が乗った汽車は新橋を出発した。車窓を移りゆく景色を眺めながら、折田はこれから赴任する湊川神社に思いをはせた。午前11時40分、汽車は横浜に到着した。菊水の目印がついた半纏を着た5人の男が人力車5台を手配して出迎えにきていた。半纏はこの日のためにあらかじめ折田が手配していたものである。
「山之一小楼ニ昇リタリ、直ニ酒ヲ出し」(「折田日記」)て宴会となった。食後、軽く午睡をとった折田は、午後4時、随行の4人とともに大阪行きの船に乗った。折田だけが「上等」船客で、随行4名は「下等」であった。船賃は上等が13円、下等が8円半であった。巡査の初任給が4円の頃である。上等の船賃は折田の湊川神社宮司としての月給12円より高かった。
午後9時、船は横浜を出た。「極て平穏なり」(「日記」)。
翌2日、下田沖の手前で夜が明けた。空は晴れていた。「濤隠風順なり」(「日記」)。折田は、船室で自宅への手紙と湊川神社での祭典のための祝詞をしたためた。
3日も晴だった。伊勢沖で夜が明けた。この日も平穏な航海であった。
午前11時、船は大阪川口に着いた。折田たちは下船し、松島から神戸行の川蒸気に乗り込んだ。
午後4時、川蒸気は神戸に到着した。一行は常盤屋に立ち寄って荷物の搬送を依頼し、直ちに湊川神社へ直行した。「常盤屋」(正式屋号「常盤舎」)は、「荷物船客取扱組内」加盟社の一つであった(『西村旅館年譜』)。折田は、湊川神社前の「菊水何某」(「日記」)に止宿することとしたが、折田夫人がなぜか不興気味だったので、宿舎を播磨屋へ移した。
◆神田県令を訪問 8月4日午前7時、折田は湊川神社神殿で初めて祝詞をあげた。
その後、折田は県庁へ行き、神田孝平県令に面会し着任あいさつをした。当時県庁は湊川神社のすぐ東、現在の裁判所の場所にあった。
折田は神田県令に、湊川神社の「社格之式例」を県令に申し入れた。県令も異論はなく、社格に従い取り扱うと答えた。
神戸には伝統ある生田神社と長田神社がある。明治4年に「近代社格制度」が創設され、生田神社と長田神社は「県社」に格付けられた。湊川神社は明治5年に創建であり歴史が浅い。湊川神社のために、新たに「別格官幣社」という社格が創設された。折田は、3神社の社格の格付け順位を順守するよう県令に申し入れたのである。
ちなみに、生田神社と長田神社は、その後、政府に社格見直しを申し入れ、明治18年に官幣小社、明治29年には官幣中社に昇格した。
折田は、湊川神社が「中教院」になる旨を報告した。中教印は兵庫県における国民教化活動の拠点である。赴任に先立ち、折田は教部大輔から、洋学者の神田は切支丹布教活動監視に積極的ではないと示唆されていた。折田は、神田に自分が宣教の最先端に立つ決意をつたえたのである。
大講義・折田年秀「折田年秀日記」(『セルポート』2014.4.1号)
神戸今昔物語(通産第472号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(15)
大講義・折田年秀(2)
◆教部省 明治6年5月2日、折田年秀は「湊川神社宮司兼大講義」の発令を受けた。大講義は、国民教化活動を行う「教導職」の一階級である。
明治政府の国民教化活動については先に書いた。折田の宮司発令後の行動を理解するため、再度、教導職、大教院について紹介したい。
慶応4年閏4月、維新政府は、神祇、祭祀を所管する神祇官を置き、「宣教師」を設けて「神道と儒教を基本とした国民教導」を行った。国学、神道、儒教中心の宣教は円滑に進まなかったため、仏教勢力の地盤と教化能力を取り込んだ合同布教体制が必要であった。
明治4年、政府は、神祇官を廃し神祇の祭祀と行政を所管する神祇省を設置した。明治5年3月、政府は、神祇省を改組し民部省社寺掛を併合して「教部省」を設置した。教部省は社寺の廃立、神官・僧侶の任命昇叙などを管掌した。
教部省は「教導職」を設置し、神道、儒教、仏教による国民教化をめざした。教導職は無給の官職である。すべての神官、僧侶が教導職に任命され、講談師、落語家等も、国民教化に役立つとみなされて任命された。
◆大教院 明治5年5月、教部省は、「教導職に任命された諸宗の住職の願出」(『明治官制辞典』)を認め「大教院」を設置した。大教院は、神仏合同による国民教化の研究、宣教機関である。「大教院」の下に、各府県単位で教化の統括を行なう「中教院」と、全国に「小教院」が置かれた。
大教院は東京芝増上寺に置かれた。折田は、発令後赴任までの3か月間に「大教院」に6回訪ねている。
明治6年8月、折田は「中教院建設に関する願書」を教部省に提出し、湊川神社が兵庫県における中教院となった。兵庫県がほぼ現在の区域になるのは、飾磨県(播磨)・豊岡県(但馬・丹波)・名東県(淡路)を併合した明治9年である。神戸には「延喜式神名帳」記載神社(「式内社」)の生田神社、長田神社ある。創建されたばかりの湊川神社が兵庫県内の国民教化を統括する機関になったのである。
◆教導職 教導職は「三条の教則」(敬神愛国、天理人道、皇上奉戴)に基づき、各地の社寺で、国家・天皇への恭順や、敬神思想等の説教を行った。
教導職の階級として「教正」「講義」「訓導」が置かれた。教正と講義には、それぞれ、大、中、少と権(副)を、訓導には権を置き、教導職は、大教正、権大教正、中教正、権中教正、少教正、権少教正、大講義、権大講義、中講義、権中講義、少講義、権少講義、訓導と権訓導の14階級であった。
明治7年5月8日、折田は、「大講義」から「権少教正」に昇任した。
◆教部省廃止 神道と仏教合同の教化活動には無理があり、両者は反発することが多かった。明治10年、神道勢力と浄土真宗の深刻な意見対立のため、浄土真宗4派が大教院を離脱した。
明治11年1月11日、政府は教部省を廃止した。
神戸学公開講座「国際都市神戸の系譜~神戸の150年~」2014.5.10 神戸山手大学
神戸学公開講座
第1回「国際都市神戸の系譜~神戸の150年~」
とき 2014.5.10(土)1400~1530
ところ 神戸山手大学3号館(相楽園西隣)
講師 楠本利夫(芦屋大学客員教授)
会費 1200円(配布資料:神戸近現代史年表ほか)
問合わせ 078-351-7170
第1回「国際都市神戸の系譜~神戸の150年~」
とき 2014.5.10(土)1400~1530
ところ 神戸山手大学3号館(相楽園西隣)
講師 楠本利夫(芦屋大学客員教授)
会費 1200円(配布資料:神戸近現代史年表ほか)
問合わせ 078-351-7170
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