神戸今昔物語(通産第463号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(6)
岩倉具視の湊川神社参詣(2)
◆折田日記(明治6年9月10日) 「一、当朝、諸寺の僧侶会議致し、是ヨリ返る。一、昼十二時発して、西之宮にて昼飯、晩五時帰社。一、(略)、野村ヨリ書面、鏡之返詞、且米国教師婦人募勧ノ云々申参る。一、当日岩倉公参参拝之由也」
◆久しぶりの祖国 明治6年9月10日、岩倉具視は、「岩倉使節団」の団長として米欧への出張の帰途、神戸に立寄り湊川神社を参拝した。
思えば、長い旅であった。明治4年11月12日(1871.12.23)に横浜を発った岩倉は、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スエーデン、イタリア、オーストリア、スイスを歴訪し、各国首脳と会見した。明治6年7月20日、岩倉はマルセイユでフランス船「アウア」号に乗船し、ナポリ、ポートサイド、スエズ運河、アデン、セイロン島、マラッカ海峡、シンガポール、サイゴン、香港を経て、9月2日上海に到着し、上陸してホテルに宿泊した。
9月4日夜、上海でアメリカ船ゴルテンエン号に乗船した岩倉は、9月6日、長崎に到着した。横浜を出航してから1年8か月余が経過していた。久しぶりの祖国である。
長崎の港を取り巻く島々の緑が岩倉を感動させた。「港口大小の島嶼、ミナ秀麗ナル山ニテナリ、遠近の峰峰、ミナ秀抜ナリ、船走レハ、島嶼ハ流ルヽ如ク、転瞬ノ間ニ種々ノ変化ヲナス」(『米欧回覧実記』)。
長崎で上陸した岩倉は、まず「行在所」で休憩した。行在所は天皇が立ち寄る施設である。岩倉だからこそ行在所を使うことができたのである。長崎の街を見物した岩倉は、夜になって船に戻った。久しぶりの日本である。料亭で美伎をはべらせ日本酒と日本料理の宴会を楽しんだことであろう。「女性に関心の薄いほうではない具視」(岩倉具忠『岩倉具視~国家と家族』)は、このとき満48歳であった。
◆瀬戸内海の美景 7日午前1時、ゴルテンエン号は長崎を出港し、早朝、唐津呼子沖を通り、午後、関門海峡を通過して周防沖で日が暮れた。
「八日 晴 午前五時ニ、船将(船長。筆者注)ヨリ世界第一ノ風景ヲ過グルヲ以ッテ、船客を呼起シミセシム、即チ芸備海峡ナリ、英、米ノ遊客十二名崎陽ヲ発シテ以来、其絶景ヲ劇賞シテ、之ヲ図ニ写シテ、終日已マス」(前掲『回覧記』)。船客は瀬戸内海の絶景を終日楽しんだ。
◆神戸の宿 「九日 晴 午後神辺ニ着シ上陸シ宿ヲ定ム」(上掲書)。神辺とは神戸のことである。岩倉が神戸で泊まった宿はどこか。『岩倉公実記』にも『回覧記』にも宿名は書かれていない。明治6年ごろの神戸にはまだまともな宿はなかった。後に神戸を代表する旅館となる西村旅館の開業は明治10年ごろである。筆者は岩倉が宿泊した宿は弁天浜の専崎弥五平邸であると考えている。岩倉は明治16年6月にも専崎邸に泊まっている。