2013年12月24日火曜日

岩倉具視の湊川神社参詣(2)岩倉は神戸でどの旅館に泊ったのか(『セルポート』2013.12.21号、連載通算463号)


神戸今昔物語(通産第463号)湊川神社物語(第2部)
                  「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(6

岩倉具視の湊川神社参詣(2

◆折田日記(明治6年9月10日)  「一、当朝、諸寺の僧侶会議致し、是ヨリ返る。一、昼十二時発して、西之宮にて昼飯、晩五時帰社。一、(略)、野村ヨリ書面、鏡之返詞、且米国教師婦人募勧ノ云々申参る。一、当日岩倉公参参拝之由也」

◆久しぶりの祖国  明治6910日、岩倉具視は、「岩倉使節団」の団長として米欧への出張の帰途、神戸に立寄り湊川神社を参拝した。

思えば、長い旅であった。明治41112日(1871.12.23)に横浜を発った岩倉は、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スエーデン、イタリア、オーストリア、スイスを歴訪し、各国首脳と会見した。明治6年7月20日、岩倉はマルセイユでフランス船「アウア」号に乗船し、ナポリ、ポートサイド、スエズ運河、アデン、セイロン島、マラッカ海峡、シンガポール、サイゴン、香港を経て、92日上海に到着し、上陸してホテルに宿泊した。

94日夜、上海でアメリカ船ゴルテンエン号に乗船した岩倉は、96日、長崎に到着した。横浜を出航してから1年8か月余が経過していた。久しぶりの祖国である。

長崎の港を取り巻く島々の緑が岩倉を感動させた。「港口大小の島嶼、ミナ秀麗ナル山ニテナリ、遠近の峰峰、ミナ秀抜ナリ、船走レハ、島嶼ハ流ルヽ如ク、転瞬ノ間ニ種々ノ変化ヲナス」(『米欧回覧実記』)。  

長崎で上陸した岩倉は、まず「行在所」で休憩した。行在所は天皇が立ち寄る施設である。岩倉だからこそ行在所を使うことができたのである。長崎の街を見物した岩倉は、夜になって船に戻った。久しぶりの日本である。料亭で美伎をはべらせ日本酒と日本料理の宴会を楽しんだことであろう。「女性に関心の薄いほうではない具視」(岩倉具忠『岩倉具視~国家と家族』)は、このとき満48歳であった。

◆瀬戸内海の美景  7日午前1時、ゴルテンエン号は長崎を出港し、早朝、唐津呼子沖を通り、午後、関門海峡を通過して周防沖で日が暮れた。

「八日 晴 午前五時ニ、船将(船長。筆者注)ヨリ世界第一ノ風景ヲ過グルヲ以ッテ、船客を呼起シミセシム、即チ芸備海峡ナリ、英、米ノ遊客十二名崎陽ヲ発シテ以来、其絶景ヲ劇賞シテ、之ヲ図ニ写シテ、終日已マス」(前掲『回覧記』)。船客は瀬戸内海の絶景を終日楽しんだ。

◆神戸の宿  「九日 晴 午後神辺ニ着シ上陸シ宿ヲ定ム」(上掲書)。神辺とは神戸のことである。岩倉が神戸で泊まった宿はどこか。『岩倉公実記』にも『回覧記』にも宿名は書かれていない。明治6年ごろの神戸にはまだまともな宿はなかった。後に神戸を代表する旅館となる西村旅館の開業は明治10年ごろである。筆者は岩倉が宿泊した宿は弁天浜の専崎弥五平邸であると考えている。岩倉は明治166月にも専崎邸に泊まっている。

専崎邸は、明治19年に宮内省が買い上げて明治天皇御用邸とした。宮内大臣は伊藤博文である。


 
               創建直後の湊川神社

神戸学 公開講座「国際都市神戸の系譜~神戸の150年~」(於:ミント神戸KCC)

市民対象公開講座のご案内です。
会場はミント神戸の神戸新聞文化センター(KCC)です。KCCの非会員も歓迎します。

1. テーマ:「国際都市神戸の系譜~神戸の150年~」(「KCC暮らしいきいき講座」)
 
 
 神戸は、住みたい町、訪れたい町として全国トップクラスの街です。
 人口150万人を擁する神戸は、大都市としての充実した都市機能を持ちながら、自然環境と景観(山と海)に恵まれた快適で静謐な住宅都市であり、国際色豊かな文化と美しい街並みを持つおしゃれな集客都市でもあります。神戸は「瀬戸内の貴婦人」の呼称がふさわしい魅力ある街です。神戸のこの都市魅力の原点は146年前の開港です。
 神戸開港から今日まで、神戸の近現代史をわかりやすく紹介します。
2. 講師 :楠本利夫 芦屋大学客員教授。博士(国際関係学)
3. とき : 2014.1.20(月)14:00~15:30
4. 会場 :KCC(神戸新聞文化センター)ミント神戸17階
5. 申込 :078-265-1100(KCC)
6. その他:KCCの非会員の方々も歓迎します。参加費1575円。

2. とき : 2014.1.20(月)14:00~15:30
3. 会場 :KCC(神戸新聞文化センター)ミント神戸17階
4. 申し込み:078-265-1100(KCC)
5. その他:KCC非会員も歓迎します。参加費1575円。
 


2013年12月20日金曜日

岩倉具視の湊川神社参詣(1)岩倉、米欧使節団の帰途神戸に立ち寄る(『セルポート』2013.12.11号 連載通算462号)


神戸今昔物語(通産第462号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(5
 

 岩倉具視の湊川神社参詣(1

◆岩倉具視参詣  明治6年9月10日、岩倉具視が湊川神社に参詣した。岩倉は、特命全権大使としての米欧出張の帰途、米国船ゴルテンエン号で9日午後神戸に到着した。岩倉は神戸に着くと下船して旅館に2日投宿し、11日午後、再び乗船して横浜へ向った。岩倉が日本を出た明治41112日には、湊川神社はまだ完成していなかった。神社創建は明治5525日である。

 岩倉が湊川神社に参詣したとき、宮司の折田年秀は不在であった。岩倉参詣の事前連絡がなかったのであろう。折田はこの日の日記に「当日岩倉公参拝之由也」と書いている。

「一、当朝、諸寺の僧侶会議致し、是ヨリ返る。一、昼十二時発して、西之宮にて昼飯、晩五時帰社。一、(略)、野村ヨリ書面、鏡之返詞、且米国教師婦人募勧ノ云々申参る。一、当日岩倉公参拝之由也」。

◆岩倉具視と湊川神社  岩倉は湊川神社創建と縁がないわけではない。岩倉は湊川神社創建に間接的に重要な役割を果たした事実は、ほとんど知られていない。

慶応4110日(1868.2.4)、神戸で備前藩兵と外国軍隊の衝突事件が偶発した(「神戸事件」)。三宮神社前を西宮に向かって行進していた備前藩の隊列を外国水兵が横切ったことから小競り合いになり、英国パークス公使が沖に停泊していた英米仏の艦隊11隻に信号を送って陸戦隊を上陸させ、備前藩と交戦させた。戦闘で死者は出ていない。外国軍は日本船5隻を拿捕し、外国人居留地を占拠し東西に関門を設けて日本人の通行を制限した。

事件は、成立直後の維新政府を驚愕させた。政府は、事件処理のため勅使東久世通禧を神戸に派遣した。東久世は、神戸運上所で各国公使と会見し、王政復古の国書を手渡して外国側に政権交代を告げ、今後の外国人の安全を保証し、日本側の責任を認め、責任者瀧善三郎の処刑を約束した。

備前藩主池田茂政は部下を切腹させることに逡巡した。当時の慣行では、武士の隊列を横切る行為(供割)は極めて無礼なことであり、制止した滝には落ち度はなかったからである。岩倉は藩主に「国家のため、備前藩のため、頼みいる」との恫喝的な親書を送った。藩主はやむなく滝の処刑を決断した。

◆兵庫裁判所役人の神社創建嘆願  東久世は、事件処理後、兵庫裁判所(後の兵庫県)総督に就任した。慶応4322日、兵庫裁判所役人6人が、東久世に楠木正成を祀る神社の神戸創建を、東久世を通じて維新政府に嘆願した。神戸事件処理で維新政府の外交上の危機を救った東久世からの働きかけである。公家と雄藩代表の混成部隊である維新政府は、すぐに神社創建を決定した。戊辰戦争で混乱していた政府としても、日本の支配者となった天皇の権威を象徴する装置が必要であり、天皇に尽くした楠木正成を祀る神社の創建は、渡りに船であった。

岩倉の湊川神社創建への貢献は、臣下への切腹命令を逡巡する備前藩主の背中を押すことにより、神戸事件の外交的処理への障害を取り除いたことなのである。

          「折田年秀日記」原本
 
 

2013年12月6日金曜日

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(4)「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」(『セルポート』2013.12.1)


神戸今昔物語(通産第461号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(4

 
年年歳歳花相似 歳歳年年人不同

 

◆連載15年目  今年もこの日が来た。師走のことではない。『セルポート」の連載を開始した日である。毎年121日号は、連載経緯を説明することとしている。

平成11121日号から始めたこの連載も、既に14年が経過した。連載を始めた時、神戸はまだ大震災の傷跡が残っていた。当時、現職の公務員であった筆者は、ペンネーム「寓籠駆」(グローカル)で連載を始めた。筆者の意見が役所の公式見解と誤解されることを懸念したからである。本名で連載することとしたのは、役所を定年退職したときからである。

◆「移住坂」  最初の連載タイトルは「移住坂」である。筆者たちが平成117月から開始した市民運動「神戸海外移住者顕彰事業」を宣伝するためである。

海外移住者は日本人の世界展開のパイオニアである。けれども、かつての日本を代表する海外移住基地神戸で、移住者に偏見を持つ人が少なくなかった。「移民は暗い。暗い話は神戸のイメージに合わない」「現地で苦しんだ移民は、政府にだまされたと思い祖国を恨んでいる」「アイルランドには記念碑はないのは、移民が祖国を思い出したくない証拠だ」「家族は身内に移民がいることを話したがらない」「いまさら寝た子を起こすな」等である。

四面楚歌、徒手空拳で始めた市民運動を、『セルポート」の岸田芳彦社長が広報面で全面的に協力して下さった。

運動はブラジルを中心とする海外日系人の共感を呼んだ。世界中からの募金2,650万円を原資として、メリケンパークに「移民船乗船記念碑」を建立し、除幕式を平成13428日午後555分に行った。明治41年のこの日この時刻に第1回ブラジル移民船笠戸丸が神戸を出港した。記念碑像は、彫刻家菊川晋久氏の作品である。

旧「国立移民収容所」は、平成15年に「市立海外移住と文化の交流センター」に生まれ変わった。昭和3年開業以来、多くの移住者を世界に送り出した山手のこの施設から、浜手の移住者記念碑までの急な坂道は「移住坂」と名付けた。

運動を支援して下さった笹山幸俊元神戸市長、佐藤国汽船佐藤国吉会長は、鬼籍に入られた。

◆「居留地百話」「神戸今昔物語」  「移住坂」連載は1年で終了し、平成131月から「居留地百話」、平成161月から「神戸今昔物語」の連載を続けている。連載で、移住者への偏見を払拭することができたこと、弁天浜明治天皇御用邸の全容を紹介できたことが印象に残っている。折田日記の連載では、開港場神戸における湊川神社の意義と役割を新たな視点から紹介していきたいと考えている。

連載にあたり多くの方々にお世話になった。神戸市立中央図書館、神戸市文書館の皆様はいつも快く資料を提供して下さった。『セルポート」岸田社長と、編集担当の浜田善輝様のご協力に感謝している。お世話になった皆様に心からお礼を申し上げる。

       海外日系人大会で運動を報告する筆者(平成12年)