神戸今昔物語(通産第460号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(3)
大楠公五百五十年大祭
◆大楠公五百五十年大祭 明治18年18日から22日まで、大楠公五百五十年大祭が開催された。湊川の合戦で敗れた楠木正成の自刃(1336年)から550年である。
祭初日7月18日の行事は神幸祭である。午前8時過ぎに神輿が神社を出門し、騎馬の湊川神社折田年秀宮司、生田神社宮司、長田神社宮司と軍楽隊51人が、県庁を経て市街を和田岬まで練り歩いた。氏子は軒先に菊水の紋提灯を掲げ国旗を掲揚した。
◆折田年秀の挨拶 19日の大祭式典で、折田は兵庫県令内海忠勝ら来賓の前で、格調高い挨拶文を厳かに読み上げ、冒頭、折田自身が楠社創建を、島津久光を通じて朝廷に建言した経緯を次のように披露した。
幕末、大阪湾に外国軍艦が出没し「外寇の戎、厳頻繁」であったので、自分が「摂海に十砲台、三城砦を築き、浪速城を修正して鎮守府を置き、又、楠公の廟社を湊川に造営して大忠を旌表し、祀典を永世に垂れ、世の忠勇洪義を激発せしめんと欲し、当時の藩主(原文のママ)島津久光に付き謹んで勅裁を請ひ允許を賜はる、実に維れ文久二年十二月十日なり」(『神戸開港三十年史』)。
◆生麦事件 文久2(1862)年5月、久光は、勅使大原重徳に随従して藩兵1000人を率いて京都を出発し江戸へ向った。6月10日、大原は江戸城で将軍家茂に一橋慶喜の将軍後見職、松平慶永の政治総裁職就任の勅諭を伝えた。
久光はこのとき無位無冠であった。薩摩藩の実権を掌握していたけれども、久光は大名ではなく「藩主の父」にすぎなかった。久光が、幕府を通さずに楠社創建と砲台建設を朝廷に建言した背景には、勅使の威光を背景に幕政改革を迫る久光を陰で「芋侯」と馬鹿にしていた幕閣への当てつけもあった。
帰途、久光の行列が生麦村を通過した際、横浜居留地のイギリス人4人が騎馬で行列を乱したため、藩士が1人を殺し2人に重傷を負わせた。「生麦事件」である。事件のあと英軍艦の来襲に備えて、鹿児島湾の砲台築造を指揮したのは、薩摩藩士折田である。翌文久3年7月、英艦隊が鹿児島に来航し薩英戦争が起きた。
◆久光に官位 12月30日、朝廷は有力大名経験者による合議制の「参預会議」を設置し、徳川慶喜、松平容保、松平慶永、山内豊信、伊達宗城を「参預」に任命した。久光も翌文久4年1月13日に参預に任命され、「従四位下左近衛権少将」に叙された。参預会議は諸侯の意見不一致のため、3か月で崩壊してしまった。
久光が朝廷に楠社創建を建言したのは、叙位1か月後の2月9日である。久光が、天皇に尽くした正成を祀る神社の創建を建言したことは、朝廷への忠誠心誇示と叙位のお礼の意味もあったと筆者は考えている。
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