「初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(2)
「折田年秀日記」
◆折田年秀 湊川神社初代宮司の折田年秀(要蔵)は元薩摩藩士である。文政8(1825)年7月7日鹿児島で生れた折田は、明治6年4月28日に湊川神社宮司に任命され、明治30年11月5日に神社の官舎で没した。折田の宮司時代は神戸の居留地時代とほぼ重なっている。
藩校造士館を経て江戸の昌平黌で蘭学を学んだ折田は、嘉永元(1848)年に蝦夷・樺太等を視察し、その後、各所で砲術、海防策等を講じ、薩英戦争では砲台築造、大砲製造にあたった。島津久光の信任が厚かった折田は、摂海防備の建言、楠社創建建言を、久光を通じて行った。明治元年、折田は山陰道鎮撫に随従し、生野代官所を接収するなどの功績を上げた。
◆折田年秀日記 折田は、宮司就任以来、四半世紀にわたり、毎日の行事、自分の行動、世間の出来事とそれに対する考え方等を日記に克明に書き残した。
明治10年2月、西郷が挙兵したとき、開通したばかりの鉄道で、政府軍の兵隊と物資が、列車で続々と神戸駅に到着し、九州の前線へ船で送られていくのを、折田は毎日いたたまれない気持ちで眺めていた。8月17日、折田は鹿児島行きを決意し、西京丸で神戸を発ち長崎経由で鹿児島に赴いた。生まれ育った街の惨状と知人たちの死は折田を慟哭させた。
翌年5月14日、大久保利通内務卿が紀尾井坂で暗殺されたとき、折田は日記に、大久保は「非凡の英材」であるが「恩義ニ叛キ親愛を失フ」、「天の報復」恐るべし、と薩摩人の本音を吐露している。
折田日記の原文44巻は、昭和41年7月に折田の子孫折田靖正から湊川神社に奉納された。明治6年3月16日から明治18年9月9日まで、全44冊の膨大な日記は、明治の神戸と日本を知る上で極めて貴重な史料である。
湊川神社は、折田日記を復刻し3巻にまとめて上梓した。第1巻(刊行平成9年)は明治6年3月16日から明治13年4月30日まで、第2巻(平成14)は明治13年5月1日から明治18年5月1日まで、第3巻(平成19)は明治18年5月1日から9月9日までを、それぞれ収録している。
◆開港場神戸の変貌 神戸は慶応3年12月7日(1868.1.1)に開港した。各国は神戸に領事館を開設し、世界中から来航した貿易商が外国人居留地に商館を構え住みついた。国内からもチャンスを求めて人々が神戸に移住してきた。
開港直後の神戸で偶発した備前藩士と外国人の衝突事件(「神戸事件」)の処理機会を利用し、維新政府最初の外交を神戸で行った。兵庫県誕生(元年5月)、「神戸町」誕生(神戸村、二つ茶屋村、走水村合併、元年11月)、外国人居留地永代借地権競売(明治元年~2年)、神戸大阪間鉄道着工(3年)、生田川付替(4年)、湊川神社創建(5年)、天皇行幸(5年)等、開港場神戸はダイナミックに動きだしていた。折田が湊川神社に着任したのはそんな頃であった。折田年秀日記(湊川神社『折田年秀日記』第一、平成9年)
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