2013年11月17日日曜日

神戸学「神戸3つの海上都市物語」神戸山手大学公開講座           2013.11.30(土)1400~

神戸山手大学公開講座「神戸学」 (2013年度秋季 第5回)

1. テーマ:「神戸3つの海上都市物語~神戸発展の戦略基地・海上都市~」

2. 講師:楠本利夫 芦屋大学客員教授(国際関係学博士)

3. 場所:神戸山手大学3号館(相楽園西)地下鉄県庁前から北北東 徒歩5分
   神戸市中央区諏訪山町3-1(650-0006)  
      (お問合わせ) 078-351-7170  e-mail: shogai@kobe-yamate.ac.jp 
4. 受講料:1200円(当日会場でお支払いください)

5. その他
 山手大学で公開講座「神戸学」を、毎年春季、秋季各5回開催しています。

 これまでのテーマは次のとおりです。

(2012年秋季) 

①神戸開港と神戸事件~明治政府最初の外交~
②湊川神社物語~湊川の合戦と湊川神社創建の謎~
③神戸弁天浜・明治天皇御用邸~大津事件のもう一つの舞台~ 
④六英堂物語~神戸布引岩倉具視旧居のなぞ~ 
⑤神戸の150
 
(2013年春季)
①移住坂
②神戸将来の事業
③西村旅館
④神戸の鹿鳴館時代
⑤第1回神戸市長選挙
 
(2013年秋季)
国際都市神戸の系譜
②湊川神社神戸創建秘話
③神戸外国人居留地
④第1回神戸みなとの祭
④神戸3つの海上都市物語~神戸発展のための戦略基地・海上都市~

湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸(3) 「大楠公六百年大祭」(『セルポート』2013.11.21号)


神戸今昔物語(通産第460号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(3

大楠公五百五十年大祭

◆大楠公五百五十年大祭  明治1818日から22日まで、大楠公五百五十年大祭が開催された。湊川の合戦で敗れた楠木正成の自刃(1336年)から550年である。

祭初日718日の行事は神幸祭である。午前8時過ぎに神輿が神社を出門し、騎馬の湊川神社折田年秀宮司、生田神社宮司、長田神社宮司と軍楽隊51人が、県庁を経て市街を和田岬まで練り歩いた。氏子は軒先に菊水の紋提灯を掲げ国旗を掲揚した。

◆折田年秀の挨拶  19日の大祭式典で、折田は兵庫県令内海忠勝ら来賓の前で、格調高い挨拶文を厳かに読み上げ、冒頭、折田自身が楠社創建を、島津久光を通じて朝廷に建言した経緯を次のように披露した。

幕末、大阪湾に外国軍艦が出没し「外寇の戎、厳頻繁」であったので、自分が「摂海に十砲台、三城砦を築き、浪速城を修正して鎮守府を置き、又、楠公の廟社を湊川に造営して大忠を旌表し、祀典を永世に垂れ、世の忠勇洪義を激発せしめんと欲し、当時の藩主(原文のママ)島津久光に付き謹んで勅裁を請ひ允許を賜はる、実に維れ文久二年十二月十日なり」(『神戸開港三十年史』)。

◆生麦事件  文久21862)年5月、久光は、勅使大原重徳に随従して藩兵1000人を率いて京都を出発し江戸へ向った。610日、大原は江戸城で将軍家茂に一橋慶喜の将軍後見職、松平慶永の政治総裁職就任の勅諭を伝えた。

久光はこのとき無位無冠であった。薩摩藩の実権を掌握していたけれども、久光は大名ではなく「藩主の父」にすぎなかった。久光が、幕府を通さずに楠社創建と砲台建設を朝廷に建言した背景には、勅使の威光を背景に幕政改革を迫る久光を陰で「芋侯」と馬鹿にしていた幕閣への当てつけもあった。

帰途、久光の行列が生麦村を通過した際、横浜居留地のイギリス人4人が騎馬で行列を乱したため、藩士が1人を殺し2人に重傷を負わせた。「生麦事件」である。事件のあと英軍艦の来襲に備えて、鹿児島湾の砲台築造を指揮したのは、薩摩藩士折田である。翌文久37月、英艦隊が鹿児島に来航し薩英戦争が起きた。

◆久光に官位  1230日、朝廷は有力大名経験者による合議制の「参預会議」を設置し、徳川慶喜、松平容保、松平慶永、山内豊信、伊達宗城を「参預」に任命した。久光も翌文久4113日に参預に任命され、「従四位下左近衛権少将」に叙された。参預会議は諸侯の意見不一致のため、3か月で崩壊してしまった。

久光が朝廷に楠社創建を建言したのは、叙位1か月後の29日である。久光が、天皇に尽くした正成を祀る神社の創建を建言したことは、朝廷への忠誠心誇示と叙位のお礼の意味もあったと筆者は考えている。

朝廷は、久光の楠社創建の建言を即刻受け入れ、幕府に土地の斡旋を命じた。ところが、久光が3か月後に鹿児島へ帰ったため、神社創建案は立ち消えになり、そのまま維新を迎えた。

湊川神社初代宮司 折田年秀
 

2013年11月7日木曜日

湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸(2)      「折田年秀日記」(『セルポート』2013.11.11号)

          神戸今昔物語(通産第459号)湊川神社物語(第2部)

「初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(2
                    
                       「折田年秀日記」

◆折田年秀  湊川神社初代宮司の折田年秀(要蔵)は元薩摩藩士である。文政81825)年77日鹿児島で生れた折田は、明治6428日に湊川神社宮司に任命され、明治30115日に神社の官舎で没した。折田の宮司時代は神戸の居留地時代とほぼ重なっている。

藩校造士館を経て江戸の昌平黌で蘭学を学んだ折田は、嘉永元(1848)年に蝦夷・樺太等を視察し、その後、各所で砲術、海防策等を講じ、薩英戦争では砲台築造、大砲製造にあたった。島津久光の信任が厚かった折田は、摂海防備の建言、楠社創建建言を、久光を通じて行った。明治元年、折田は山陰道鎮撫に随従し、生野代官所を接収するなどの功績を上げた。

◆折田年秀日記  折田は、宮司就任以来、四半世紀にわたり、毎日の行事、自分の行動、世間の出来事とそれに対する考え方等を日記に克明に書き残した。

明治102月、西郷が挙兵したとき、開通したばかりの鉄道で、政府軍の兵隊と物資が、列車で続々と神戸駅に到着し、九州の前線へ船で送られていくのを、折田は毎日いたたまれない気持ちで眺めていた。817日、折田は鹿児島行きを決意し、西京丸で神戸を発ち長崎経由で鹿児島に赴いた。生まれ育った街の惨状と知人たちの死は折田を慟哭させた。

翌年514日、大久保利通内務卿が紀尾井坂で暗殺されたとき、折田は日記に、大久保は「非凡の英材」であるが「恩義ニ叛キ親愛を失フ」、「天の報復」恐るべし、と薩摩人の本音を吐露している。

 折田日記の原文44巻は、昭和417月に折田の子孫折田靖正から湊川神社に奉納された。明治6316日から明治1899日まで、全44冊の膨大な日記は、明治の神戸と日本を知る上で極めて貴重な史料である。

湊川神社は、折田日記を復刻し3巻にまとめて上梓した。第1巻(刊行平成9年)は明治6316日から明治13430日まで、第2巻(平成14)は明治1351日から明治1851日まで、第3巻(平成19)は明治1851日から99日までを、それぞれ収録している。

◆開港場神戸の変貌  神戸は慶応3127日(1868.1.1)に開港した。各国は神戸に領事館を開設し、世界中から来航した貿易商が外国人居留地に商館を構え住みついた。国内からもチャンスを求めて人々が神戸に移住してきた。
開港直後の神戸で偶発した備前藩士と外国人の衝突事件(「神戸事件」)の処理機会を利用し、維新政府最初の外交を神戸で行った。兵庫県誕生(元年5月)、「神戸町」誕生(神戸村、二つ茶屋村、走水村合併、元年11月)、外国人居留地永代借地権競売(明治元年~2年)、神戸大阪間鉄道着工(3年)、生田川付替(4年)、湊川神社創建(5年)、天皇行幸(5年)等、開港場神戸はダイナミックに動きだしていた。折田が湊川神社に着任したのはそんな頃であった。

  
            折田年秀日記(湊川神社『折田年秀日記』第一、平成9年)

2013年11月3日日曜日

湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸(1)      「神戸京都間鉄道開業式」(『セルポート』2013.11.1号)

神戸今昔物語(通産第458号)湊川神社物語(第2部)

「初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(1

神戸京都間鉄道開業式

 ◆「折田日記」  今号から新しい連載を始める。

元薩摩藩士で湊川神社初代宮司の折田年秀は、明治6年の就任から明治30年の逝去まで、日々の出来事を克明に記録した日記を残している。折田の宮司時代は神戸の居留地時代とほぼ重なっている。神戸の発展を湊川神社から定点観測した日記は、神戸近代史の貴重な証言である。折田日記から居留地時代の神戸を紹介する。

◆鉄道開業式  明治1025日、神戸京都間の鉄道開業式が、明治天皇臨席のもと行われた。天皇は、午前840分に京都御所を出て、七条停車場から列車に乗り梅田停車場に午前1030分に到着し、開通式典に臨まれた。

式典終了後、天皇は、梅田停車場発1110分の列車で神戸停車場に1215分に到着し、停泊中の艦船の祝砲に迎えられた。神戸での式典では、米国ニューウィター領事と兵庫県権県令森岡昌純が祝辞を述べた。

天皇は午後2時神戸初の列車で京都へ向い午後4時に七条停車場に到着した。京都での開業式で鉄道開通の勅語を発し、三条実美太政大臣が祝辞を述べた。

◆開業式見物  折田は夫人同伴で開業式見物に行ったことを日記に書いた(旧漢字は筆者が現代漢字に改めた)

「二月五日、晴、

一、当日は本所幷(ならび)に大坂西京鉄道開業式御執行ニ付、聖上御臨御、第十二時ヨリ相初リ候事、病中につき家内共拝見ニ差出候事、

 一、本日者、兵庫・神戸大ニ賑ヒ、人民親シク奉拝龍顔候、」

「病中につき家内共」とあるのは、折田は1月末から体調を崩していて、一人で外出するには不安があったためである。

◆西南戦争  10日後の215日、西郷軍が鹿児島を出発し熊本へ向った。「西郷立つ」の情報に、天皇は予定を変更して、そのまま京都御所に滞在することになった。

政府は神戸弁天浜の専崎弥五平邸に運輸局を設置した。神戸が西南戦争制圧の兵站基地となった。開通したばかりの鉄道で、兵隊と物資が続々と神戸駅に到着し、船で九州の前線へ運ばれていった。神戸駅は神社のすぐ南にある。元薩摩藩士の折田は気が気でなかった。

「二月十五日、晴、

一、昨今より近衛兵幷ニ海軍等、追ゝ繰込ミタリ、大凡四千余人なり、軍艦も同断、入津ニ及候、

一、鹿児島変動之音容、甚騒然タリ、然レトモ確報ならす、」

 「二月十七日、晴、

一、当日も海・陸軍、大凡六百人余繰込ミタリ、

一、 大久保内務卿、十六日東京より着神、当日上京なり、()

内務卿大久保利通が東京から神戸経由で京都へ行ったのは、京都にいる天皇に拝謁して反乱への対応について指示を仰ぐためである。19日、政府は「鹿児島暴徒征伐」を布告した。

◆大久保、西郷と折田   このとき、大久保47歳、西郷49歳、折田52歳であった。元薩摩藩士の3人は年齢も近くお互いに気心が知れていた。

西郷はこの年924日に城山で自刃し、大久保は翌明治11514日に紀尾井坂で暴漢に襲われて死亡した。折田は明治30115日に72歳の生涯を終えた。

出典:「明治10年 兵庫神戸市街の図」(大蔵省蔵)
湊川神社の南に神戸駅が開業したのは明治7年(神戸大阪間鉄道開通)である。