2013年9月28日土曜日

新条約施行 内地雑居 「隣人の脱帽損」 「神戸又新日報」


『セルポート』2013101日号(連載通算第455号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁(19) 「隣人の脱帽損」

 

◆「隣人の脱帽損」  カットでは、下駄をはいた和服の男性が、外国人女性に帽子を脱いで丁寧に挨拶をしている。女性は帽子をかぶったままであるので、男性の「脱帽損」というわけである。いうまでもなく、女性の帽子は「服装の一部」とみなされているので、屋外はもとより、室内でもとらなくてもよい。

明治政府の懸命の条約改正努力が功を奏し、新条約発効を2年後の明治327月に控えていた。新条約発効で外国人との「内地雑居」が実現した暁には、文化摩擦や、誤解が日常的に生じるだろうとの風刺絵である。

◆和服に帽子  カットの男性の、「和服に洋風の帽子」は、明治維新以後、昭和戦前まで、定着していたスタイルである。女性にはこの組み合わせはない。なぜ、男性だけ「和洋折衷」なのか。

 かつて、欧米では帽子は紳士の正装に必須であった。室内や女性の前で帽子を脱ぐ男性が「真の紳士」、脱がない男性は「紳士のふりをしている男」、そして、帽子をかぶっていない男性は「紳士のふりをすることをあきらめている男」というジョークもある。

江戸時代、日本人男性は月代(さかやき)を剃り「ちょんまげ」を結っていたので、紳士のファッションとしての帽子は普及しなかった。編笠、饅頭笠等は、旅行や屋外作業の際、頭部を雨風から保護するものであり、陣笠、兜等は戦場で刀や矢から頭部を護るものであった。

 明治48月、「断髪令」(散髪脱刀令)が布告された。断髪強制ではなく、型自由を認めるという布告である。各地に「西洋床」(理髪店)が誕生したが、髷(まげ)を切って洋髪にする人は少なかった。

◆兵庫の名士たちの断髪  兵庫県令神田孝平は、断髪を「専ら説諭により」実行させた(『神戸市史 本編各説』)。兵庫の名士・神田(こうだ)兵右衛門(後、初代市会議長)も断髪を嫌がった。兵右衛門は、維新後に、伊藤博文の要請を受け、率先して洋服を着用し市内を闊歩したこともある開明派である。その兵右衛門でさえも、なかなか断髪には踏み切れなかった。

県令から断髪するよう「説諭」を受けた兵右衛門は、遂に意を決し、「兵庫区内の公職に在る者」約40人と一緒に断髪することとした。3人の髪結を招いて最後の髷を結い、その後、いよいよ断髪するときになると、集まっていた人はその場から去り、残ったのは9人だけであった(上掲書)。散切り(ざんぎり)頭になることへの心理的抵抗は強かったのである。

明治63月、天皇が髷を切った。以後、多くの人が断髪することになった。

公務員の「礼服」は、太政官布告(明治5年)で洋服と定められていたが、洋服は高価であったため、人々は、和服を着用していた。

髷を落とした男性の頭部は、なんとなく寂しく違和感があった。そんなとき、西洋紳士のおしゃれに必須である「洋風帽子」を着用したのが、「和服に洋風帽子」スタイルの端緒ではないだろうか。専門家のご意見をお伺いしたいと思う。

新条約施行 内地雑居 「掴み合い」 「神戸又新日報」


 
『セルポート』2013921日号(連載通算第454号)「神戸今昔物語」
内地雑居の暁(18) 「○の掴み合い」
 
◆「○の掴み合い」  カットは外国人と日本人の喧嘩である。意思疎通できないことが、掴み合いの原因である。原文タイトルの差別的用語を筆者が「○」とした。
2年後に新条約が発効すれば内地雑居が実現する。外国人も日本国内で自由に住むことができるようになる。
A.C.シムの暴力事件   神戸レガッタ&アスレティック・クラブ(KR&AC)創設者アレキサンダー・シム(A.C.SIM)は、居留地消防隊長をボランティアで務めるかたわら、ボート、フットボールなどのスポーツを日本に紹介した英国人である。東遊園地にシムの顕彰碑がある。
 明治131880)年514日夜、神戸港は激しい突風に見舞われ、海岸に係留していたシムのヨットが沈没した。翌朝、シムがヨットを引き上げたところ、帆が切りとられてなくなっていて、そばに茶舟が一艘残されていた。茶舟は「川遊びの船に飲食物を売りまわる小船」(「広辞苑」)である。当時、沖に停泊している外国船に茶舟で飲食物、土産物を売る行商人がいた。
シムは、茶舟を証拠品として陸へ引き上げておいた。
茶舟は、西出町の播山茂助の所有舟であったが、盗まれて行方不明になっていた。茶舟を探していた茂輔の息子鶴松は、シムが茶舟を引き上げたことを知り、シムに茶舟の返還を求めた。
シムは鶴松が帆を盗んだ犯人と思いこみ、鶴松を厳しく詰問した。鶴松はヨットのことは知らないと必死に弁明したが、言葉が通じないため意思疎通できなかった。怒ったシムはもう1人の男と共に、鶴松と、同行していた古川忠蔵を建物内に監禁して縄で縛り上げ、ボートのオールで殴打した。
目撃者の通報を受け、神戸警察署員が「居留地警察」警官とともに、現場に急行し、監禁と暴力の事実を確認した上で、2人を救出した。
◆領事裁判  鶴松と忠蔵は、兵庫県を通じて、シムを英国領事に告訴した。「領事裁判時代」の当時、「安政五か条約」に基づき、訴追された外国人の裁判権が日本側には認められず、外国領事が当該国の法律に基づいて裁判をしていた。
森岡昌純兵庫県令は、英国領事に「被告人の罪は遁(のが)るる能わざるを信ず。よって御取調べの上A.C.シム外1名において、無罪なるわが国人を制縛したのみならず、あまつさえ拷打したる始末、貴国法典に照ら、厳重御処分相成りたし」との書状を送り、厳正な領事裁判を要求した。
領事館からの回答は「民事か刑事か、いずれか一方を選択せよ」というものであった。県令はそれを了解し鶴松らに連絡した。鶴松らは、治療費や休業による生活費の補償が必要であったため、やむなく民事訴訟を選んだ。県令は原告が「シム以外一名に対する告訴は損害要償の方に決定」、と領事館に報告した。
不法監禁、暴力、傷害事件は、刑事事件の訴訟ではなく、損害賠償請求にすり替えられてしまった(『兵庫県警察史 明治大正編』)。
 

2013年9月16日月曜日

新条約施行 内地雑居 郵便脚夫の種類 「神戸又新日報」


『セルポート』2013911日号(連載通算第453号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁(17) 郵便脚夫の種類

 

◆「郵便脚夫の種類」  カットのタイトルは「郵便脚夫の種類」である。「郵便脚夫」(郵便配達人)になぜ「種類」があるのか。

2年後の新条約施行で「内地雑居」が実現すれば、外国人も居住地を自由に選ぶことができるようになる。国際郵便物も、外国人が住む特定の地域の郵便局だけが扱っていたが、内地雑居後は日本全国で扱うことになる。

新条約施行を2年後に控えた明治3081日、神戸郵便局に「外国郵便課」が新設された。

カットは、新たに雇われた外国郵便専門の配達人(右)が、同じ地区を担当する郵便配達人(左2人)に、仕事開始の挨拶をしている姿である。

◆前島密と柴田剛中  わが国近代郵便制度創設者の前島 密(18351919)は、神戸で、兵庫奉行柴田剛中(18231877)の部下として開港準備の仕事をしていたことがある。

柴田は、慶応3711日(1867810日)に、神戸開港準備の責任者として兵庫奉行に任命された。幕府外交官僚の柴田は、それまでに2度の欧州出張経験があった。欧州締約国への神戸開港延期交渉(1862年)と、英仏への製鉄所建設及び軍制調査(1865年)出張である。

慶応3127日(186811日)、新装なった神戸運上所で、柴田は6か国の公使に神戸開港を宣言した。

慶応31867)年、前島密が「兵庫奉行の手付出役」の発令を受けて神戸に来た。32歳の前島は、兵庫奉行柴田の補佐役として、開港準備、居留地造成、運上所建設等の開港準備業務を行い、慶応41868)年、兵庫奉行支配役になり翻訳方を兼務した。

 これに先立ち、前島は、文久21862)年、27歳のとき、長崎でアメリカ宣教師ウィリアムズやフルベッキから英語・数学を学び、米国の郵便事情の教えを受けた。

前島は、神戸で外国との郵便送達の仕組みや切手の実物を見て、近代的郵便制度創設の必要性を実感した。英国では1840年に、全国均一料金、切手貼付・ポスト投函で郵便物が相手に届く「近代郵便制度」が創設されていた。

◆神戸郵便役所  明治431日、郵便制度が発足し、東京・大阪間の新式郵便取扱が開始された。814日、「大蔵省逓寮出張所神戸郵便役所」が宇治野町に開設された。12月5日、「郵便規則」が制定され、東京・長崎間の郵便が開始された。10日、神戸大阪間に13便の汽船郵便物運送が始まり、運上所内の郵便仮役所が業務を開始した。19日、神戸で最初の郵便箱(ポスト)が設置された。

神戸郵便役所は、明治5225日に市場町(元町6丁目)に移転した。明治811日、神戸郵便役所は「郵便局」と改められた。5月、前島が設計した神戸郵便局の新庁舎が栄町6丁目に完成した(『百年史神戸ゆうびんの道筋』)。洋風のモダンなこの庁舎に、明治10128日、明治天皇が休憩のため立ち寄られた。

新条約施行 内地雑居 コミッション中毒 「神戸又新日報」


『セルポート』201391日号(連載通算第452号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁(16) 「コムミッションの中毒」

◆「コミッションの中毒」  カットをご覧いただきたい。男性が苦しそうに口から吐き出しているのは「大和魂」である。足元には紙幣と硬貨が散らばっている。

コミッションは、「①(商取引などで)仲介の手数料。口銭。(わいろの意味にも用いられる)」、「大和魂」は「日本民族に固有の気性(のうち、よい面)」(『新明解国語辞典』)である。

不平等条約が撤廃されて内地雑居が実現すれば、外国人も日本国内で自由に活動することになり、外国企業に雇われる日本人も増えることになる。カットは、外国人に雇われた日本人が「コミッション中毒」(「わいろ中毒」)になり、「大和魂」を捨てて、金もうけに走る姿を皮肉っている。

ちなみに、英語のcommissionには、「わいろ」のニュアンスはなく、「①委任、委託、②(委任された)任務、職権③委員、委員会、④手数料」(『ライトハウス英和辞典』)である。

◆兵庫の気風  安政条約で取り決められた開港場は兵庫であった。幕末、兵庫は海上交通の中心、物資の集散地、西国街道の宿場町として殷賑を極めていた。伝統ある兵庫では、「旧家、素封家の旦那衆」は、住民から名誉ある「公共的義務がある者」として「崇められていた」(『神戸開港三十年史』)。兵庫は品格ある街であった。

◆神戸の新移住者  開港した神戸に、各国は領事館を開設し、欧米の貿易商が商館を構え、ビジネスチャンスを求めて、世界中から人々が移住してきた。

外国人だけではない。国内からも人々が移り住んだ。「新来の新住民は、古郷(ママ)を棄てヽ新運命を求めんとして来る者」であり、「冒険も恐れず、労苦も辞せざる気力ある者」であった。「彼らの眼中には自己あるのみ、隣人すら之なきなり。彼らの胸中には利己あるのみ、他人の利害を顧慮するに遑(いとま)なきなり。彼等の欲望には銭あるのみ、名誉の如きは問ふところにあらず。彼等は高尚な嗜好を有せず、而して、壮(さか)んなる営利の意思を有す。彼等は優美なる思想を有せず。而して燃ゆるが如き貨殖の希望を存す。(略)神戸市中は、実に斯(かく)の如き住民を以て充満したり」(「上掲書」)。神戸はゴールドラッシュの様相を呈していた。

神戸の新住民は、伝統ある兵庫の住民の目には「軽薄なり、狡猾なり、点智なり、成上紳士」(「前掲書」)と映った。守旧兵庫と新興神戸の気風は劇的に異なっていた。

◆外国商館に雇われた人達  居留地の欧米の商館主は、中国人を筆頭番頭として雇っていた。居留地商館との取引は中国人を通して行われることが多かった。中国人は、持ち前の勤勉さと才覚で活躍し、中国人がいなければ居留地の商館の運営は成り立たないほどであった。商売の世界では、手数料、わいろはつきものである。居留地の商館主に雇われていた日本人も商売のやり方を学んだ。

 新条約施行による内地開放で、日本中が「居留地になる」と庶民はあらぬ心配をした。
 

2013年9月5日木曜日

神戸学~楠本利夫の神戸近現代史案内~ 神戸山手大学公開講座(2013.9~11)

2013年度後期、神戸山手大学市民公開講座を次のとおり行います。

★会場:神戸山手大学 3号館(相楽園西隣 JR元町駅北西7分)

★申込:神戸山手大学 生涯学習センター(078-351-7170)
       有料6,000円(1回ずつの受講も可:@1200円)

★講演予定」:
 
1回(914)国際都市神戸の系譜~神戸の150年~

2回(928)湊川神社神戸創建秘話
  ~京都創建が内定していた楠木正成を祀る神社がなぜ神戸に~

3回(1012)神戸外国人居留地~国際都市神戸の原点~

4回(1026)第一回神戸みなとの祭(昭和8年)のなぞ
  ~第一回みなとの祭はなぜ市長不在で開催されたのか~

5回(11303つの海上都市物語~都市発展の戦略基地・海上都市~


参考
2013前期)

1回(511)海外移住基地神戸~神戸発世界行き~

2回(518)「神戸将来の事業~明治中期の神戸人が描いた神戸のマスタープラン~

3回(6 1)明治神戸の名門旅館・西村旅館物語

4回(615)内海知事の夜会~神戸の鹿鳴館時代~

5回(629)第1回神戸市長選挙