『セルポート』2013年10月1日号(連載通算第455号)「神戸今昔物語」
内地雑居の暁(19) 「隣人の脱帽損」
◆「隣人の脱帽損」 カットでは、下駄をはいた和服の男性が、外国人女性に帽子を脱いで丁寧に挨拶をしている。女性は帽子をかぶったままであるので、男性の「脱帽損」というわけである。いうまでもなく、女性の帽子は「服装の一部」とみなされているので、屋外はもとより、室内でもとらなくてもよい。
明治政府の懸命の条約改正努力が功を奏し、新条約発効を2年後の明治32年7月に控えていた。新条約発効で外国人との「内地雑居」が実現した暁には、文化摩擦や、誤解が日常的に生じるだろうとの風刺絵である。
◆和服に帽子 カットの男性の、「和服に洋風の帽子」は、明治維新以後、昭和戦前まで、定着していたスタイルである。女性にはこの組み合わせはない。なぜ、男性だけ「和洋折衷」なのか。
かつて、欧米では帽子は紳士の正装に必須であった。室内や女性の前で帽子を脱ぐ男性が「真の紳士」、脱がない男性は「紳士のふりをしている男」、そして、帽子をかぶっていない男性は「紳士のふりをすることをあきらめている男」というジョークもある。
江戸時代、日本人男性は月代(さかやき)を剃り「ちょんまげ」を結っていたので、紳士のファッションとしての帽子は普及しなかった。編笠、饅頭笠等は、旅行や屋外作業の際、頭部を雨風から保護するものであり、陣笠、兜等は戦場で刀や矢から頭部を護るものであった。
明治4年8月、「断髪令」(散髪脱刀令)が布告された。断髪強制ではなく、髪型自由を認めるという布告である。各地に「西洋床」(理髪店)が誕生したが、髷(まげ)を切って洋髪にする人は少なかった。
◆兵庫の名士たちの断髪 兵庫県令神田孝平は、断髪を「専ら説諭により」実行させた(『神戸市史 本編各説』)。兵庫の名士・神田(こうだ)兵右衛門(後、初代市会議長)も断髪を嫌がった。兵右衛門は、維新後に、伊藤博文の要請を受け、率先して洋服を着用し市内を闊歩したこともある開明派である。その兵右衛門でさえも、なかなか断髪には踏み切れなかった。
県令から断髪するよう「説諭」を受けた兵右衛門は、遂に意を決し、「兵庫区内の公職に在る者」約40人と一緒に断髪することとした。3人の髪結を招いて最後の髷を結い、その後、いよいよ断髪するときになると、集まっていた人はその場から去り、残ったのは9人だけであった(上掲書)。散切り(ざんぎり)頭になることへの心理的抵抗は強かったのである。
明治6年3月、天皇が髷を切った。以後、多くの人が断髪することになった。
公務員の「礼服」は、太政官布告(明治5年)で洋服と定められていたが、洋服は高価であったため、人々は、和服を着用していた。
髷を落とした男性の頭部は、なんとなく寂しく違和感があった。そんなとき、西洋紳士のおしゃれに必須である「洋風帽子」を着用したのが、「和服に洋風帽子」スタイルの端緒ではないだろうか。専門家のご意見をお伺いしたいと思う。