「姉妹都市交流の意義~グローバル化の進展と姉妹都市~」を、『国際文化研修2013夏』(2013年7月号、全国市町村国際文化研修所)に発表しました。
目次
1.姉妹都市は不要か
2.姉妹都市は外国にいる親しい友人
3.姉妹提携は我が国自治体「国際事務」のかなりの部分を占めている
4.姉妹都市提携は双方の都市に利益をもたらす
5.市民は姉妹提携先の都市に千金館を持つ
3.姉妹都市提携は国際平和に寄与する
2013年7月27日土曜日
2013年7月26日金曜日
改正条約施行 内地雑居の暁 和装の初歩 神戸又新日報
セルポート』2013年7月21日号(連載通算第449号)「神戸今昔物語」
内地雑居の暁(13) 「和装の初歩」
◆外国人の和装 新条約発効による内地雑居を控えていた頃、庶民の関心事は、文化が異なる外国人が同じ町内に住むことであった。言葉が通じない隣人と仲よくやっていけるか、隣地に高い洋館が建ち自邸がその日陰になるのではないか等々、心配の種は尽きなかった。
カットの「和装の初歩」は、外国人が和服で町を歩いている姿である。羽織袴に下駄をはいて、帽子をかぶり、手には扇子を持っている。こんな外国人なら共存できる、と住民はほっとしたことであろう。
◆洋服の流行 「外国人の和装」の逆は「日本人の洋装」である。
神戸で洋服を広めた先駆者は、初代兵庫県知事伊藤博文と、兵庫の名士である神田(こうだ)兵右衛門(1841~1922)と藤田積中(1829~1888)である。
「知事伊藤博文が、当時、人の珍とせし、澤井フクリン・呉郎フクリン等において仕立てし衣服を著用してより、服装一時紳士の流行となりし」(『神戸市史 本編各説』)。伊藤の在任期間は、明治元年5月から翌2年4月であるので、伊藤は明治初年に洋服を広めたことになる。神田と藤田は、明治2年に「率先し洋服を著用して流行の魁となし、県当局の依頼により、市民勧誘のため、洋服著用のまヽ市中を逍遥し且つ撮影せるあり」(上掲書)。伊藤に依頼された二人は、洋服の広告塔役を引き受けたのである。
◆神田兵右衛門と藤田積中 兵庫の豪商神田は、私学「明親館」を興して教育の普及に努め、新川運河を開いて市街の発展に尽くし、兵庫商法会議所を設けて産業振興を図り、初代神戸市会議長として公益のために尽くした。神田の葬式は、神戸市初の市葬あった。
藤田は、明治元年に明親館の教員になり、兵庫県で最初の新聞「湊川濯餘」を発行した知識人である。伊藤知事は、藤田の才能を見込んで官界に誘ったが、藤田は明治9年に官界を去った。藤田は、明治12年に兵庫県会議員に初当選し、以後、議員を続けた。
◆兵庫と神戸の確執 安政条約上の開港場は兵庫であった。幕末、「兵庫津」は、西国街道の宿場町、内航海運の拠点として人口2万人を擁し、殷賑をきわめていた。住民は、変革を伴う開港を嫌がったため、兵庫に代わって神戸が開港場となった。神戸村の海沿いに外国人居留地が建設され、各国は神戸に領事館を開設し、世界中から来航した貿易商が商館を建設した。日本人も国内各地から神戸に移住してきた。
新来の神戸の住民は外国の文物を貪欲に吸収した。明治2年には、早くも神戸に写真館が開業した。神戸の人は、撮った写真を人に見せて喜んでいたが、兵庫の人は写真を撮られると命が縮むと敬遠した。洋食店も、明治5~6年には、神戸に5~6軒もあったが、兵庫には1軒もなかった。
兵庫の住民は、神戸の住民を「軽薄」「狡猾「成り上り」「利己的」と軽蔑し、神戸の急速な発展を苦々しく思っていた。天井川の湊川が兵庫と神戸の交流を阻害していたため、「守旧兵庫」と「新興神戸」の住民は融和しようとしなかった(『神戸開港三十年史』)。
保守的な兵庫の有力者である神田と藤田が、神戸で洋服を広める役割を担ったことは興味深い。
2013年7月16日火曜日
神戸開港秘話~「神戸事件」当日の神戸沖外国艦隊~
Ship & Ocean Newsletter (第305号2013.4.20号)
1868年2月4日、開港1か月後の神戸で起きた備前藩兵と外国軍隊の衝突事件は、成立したばかりの維新政府を驚愕させた。神戸沖に停泊していた英米仏の艦隊11隻から外国軍隊が上陸し備前藩と交戦した。なぜ、これだけの大艦隊がこのとき神戸沖に停泊していたのか。
http://www.sof.or.jp/jp/news/301-350/305_3.php
改正条約施行 内地雑居の暁 外国人遊歩規定 神戸又新日報
『セルポート』2013年7月11日号(連載通算第448号)「神戸今昔物語」
内地雑居の暁(12) 「羨ましいアリ舛」
◆「羨ましいアリ舛」 カットでは、辮髪の中国人男性が「羨ましいアリ舛」とつぶやいている。彼の足元には「遊歩期定外」の線が引かれている。「遊歩期定外」は「遊歩規定外」の間違いである。「外国人遊歩規定」は、外国人を居留地から半径10里以内の「遊歩区域」内に閉じ込めておくためのものであり、外国人が区域外に出るときは、当局の許可が必要であった。
条約で外国人は開港場・開市場の「居留地」に住むことが義務付けられていた。神戸は、開港勅許が遅れたため、開港日になっても居留地は造成中であった。政府は、外国側の要請を受け、外国人が日本人と混住できる区域として「雑居地」を認めた。居留地を取り囲んで雑居地があり、雑居地の外側に遊歩区域があった。
◆「遊歩規定」 日米修好通商条約第7条で、「日本開港の場所に於て亜米利加人遊歩の規定」として、開港場ごとに、遊歩区域が指定されていた。「神奈川」の遊歩区域は「六郷川筋を限として其他は各方へ十里」であり、「箱館」は「各方へ十里」であった。「兵庫」の遊歩区域は、京都へ距る事十里の地へは、亜米利加人立入さる筈に付き、其方角を除き各方へ十里、兵庫に来る船々の乗組員は、猪名川より海辺迄の川筋を、超ゆへからす(以下略、句読点筆者)」であった。
ちなみに、生麦事件の舞台となった生麦村(現・横浜市鶴見区)は、横浜居留地の遊歩区域内にあった。乗馬の遠乗りを楽しんでいた横浜居留地の外国人が、島津久光の行列と遭遇して、あの事件となったのである。
◆「居留地外に於ける外国人の演説」(「神戸又新日報」明治22年4月9日号) 「先頃、米国宣教師が、新潟県下長岡に於て、宗教演説を為さんとしたるに、同地の警察官は、外国人の居留地外に在りて演説するは、規則の許さヾる所なりとて、之を差止めたるより、外国人中には彼此(かれこれ)苦情を鳴らし、中には其の禁を解かれたき旨、其筋へ建言したる者もありやに聞き居たるが、富山県知事は此事に関し、外国人たるものは、仮令宗教上の事たりとも、居留地外に於て公衆を集め演説を為すと相成らざる儀と存じ居れど、本邦人にして、宗教拡張の為め公衆を集め、一場の法話講談等を為す場合に際し、一時外国人を招待し、一場の講談法話等を為さしむるが如き事も、亦、相成らざる儀にやと、其筋へ伺いしに、外国人たりとも宗教上に関し臨時一場の講談を為すは、差許し苦しからずとの指令ありたるよし」。
新潟県長岡村で、布教活動をしている外国人を警察官が見つけて注意したところ、外国側は逆にそれに対して反論した。新潟県知事は、日本人が宗教的布教のため「法話講和」をするときに、「一時的」に外国人も招き一緒に布教させてもいいのではないか、と政府にお伺いを立てた。政府は、弾力的扱いをしても差支えない、と回答した。
井上薫の条約改正会議がとん挫し、大隈重信外務大臣が、最高裁に外国人判事を入れることと引き換えに不平等条約撤廃を各国と協議していた時代である。
2013年7月5日金曜日
改正条約施行 内地雑居の暁 転宅の流行 神戸又新日報
『セルポート』2013年7月1日号(連載通算第447号)「神戸今昔物語」
内地雑居の暁(11) 「転宅の流行」
◆「転宅の流行」 カットは、自宅に「かし家」の張り紙をして、家財一式を運び出すところである。家賃は「一カ月百円」とある。明治30年の巡査初任給は9円であるので、家賃はその約11倍となる。借主は外国人であろう。そういえば、開港直後の神戸でも、住民が、外国人に土地、家屋を法外な値段で貸していたとの記録がある(『神戸市史 本編各説』)。
それにしても、なぜ転宅が流行するのか。内地雑居を新たなビジネスチャンスと見た人が、高額の家賃収入を期待できる外国人向けの貸家業を始めたのか、それとも、近隣に外国人が住むことを嫌がって逃げ出すところであろうか。
◆神戸の雑居地 開港当日になっても、居留地はまだ工事中であった。条約では、外国人は、居留地内に住むことと取り決められていた。けれども、工事中の居留地には住めない。外国側は、開港2か月後(3月3日)に、「居留地外への居住」を認めるよう兵庫県に陳情した。伊藤俊介知事は、「雑居地」を認める書簡(3月7日付)を各国領事宛に送付した。雑居地は、外国人と日本人が混住できる区域であり、生田川と宇治川、海岸と山ろくに挟まれた9村(生田、二つ茶屋、走水、生田宮、中宮、城ケ口、北野、花隈、宇治野)である。
もともと、雑居地認定は、居留地が完成するまでの暫定措置であり、居留地が完成すれば廃止される予定であった。けれども、後になって、居留地の区域拡張問題が起こったため、雑居地は廃止されることはなかった。
◆「外国人を相手取る」 「当港下山手通七丁目に住居ある小倉タケは、先年来、英国人リースと称ふるものへ、兼て所持の地所(下山手通り)を貸し輿へ居たるが、其後、件の地所の為に紛議を引き起したる末、右タケは八田勇之助と云ふものをして、リースを相手取り、当居留地の英国領事へ向け、地所取戻しの訴訟を起し居りし処、此程、同事件は既に裁決となりしを、原告小倉タケは其裁決を不当とし、復た、八田勇之助を代理として、近日、東京なる同国公使館へ復審の儀を訴へ出んか為め、本県庁へ向け、同館への復申書を乞ひ出たりと聞く」(「神戸又新日報」明治19年2月7日)。
下山手通の住民小倉タケが、英国人に賃貸していた地所をめぐる紛争があり、タケは代理人を通じて、神戸の英国領事に訴訟を起こしていた。タケは神戸領事の裁決を不服として東京の英国公使館に上告し、兵庫県庁に復申書を申請したという記事である。
領事裁判でも、原告が初審に納得できない場合には再審の道が開かれている。現実には、再審は東京の公使館へ、さらに、外国の高等裁判所へ、最終的にはその国の最高裁へ上告することとなる。語学、経費面で、外国への上訴は事実上できない。通常は、所轄領事の初審裁決に不満があっても泣き寝入りするケースが殆どだった。
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