2015年7月27日月曜日

西南戦争と折田年秀(『セルポート』150601号)

神戸今昔物語(第510号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(53)

西南戦争と折田年秀
 
◆西郷下野  明治6年10月23日、参議・陸軍大将西郷隆盛は辞表を提出し鹿児島へ戻った。

明治7年6月、西郷は鶴丸城の厩跡に士族子弟の教育機関として「私学校」を設立した。私学校は軍学校であり、砲隊学校と銃隊学校、幼年学校(章典学校)で構成されていた。

明治9年に神風連の乱、秋月の乱、萩の乱がおきた。不平士族による内乱を鎮圧した政府は、鹿児島の動きを警戒していた。

明治9年12月、薩摩藩出身の大警視・川路利良は、薩摩藩出身の中原尚雄ら23名を、密偵として鹿児島に送り込んだ。目的は、鹿児島の情勢調査と私学校生徒を西郷から離反させることであった。明治10年1月から密偵は行動を開始した。鹿児島では警察組織も私学校が掌握していた。2月3日から7日の間に密偵は私学校党に逮捕された。拷問を受けた一人は西郷暗殺計画を自供し口供書をとられた。

◆西南戦争前夜  明治10年1月、政府は鹿児島にある陸軍省の火薬を大阪に移送するため、三菱会社の汽船赤龍丸を派遣した。前年に西日本各地で反乱が続発したことを受け、鹿児島に火薬を置くのは危険であると考えたためである。

1月29日、赤龍丸は弾薬の船積みを開始した。これが、私学校党の暴発の契機になった。29日深夜、私学校党は、弾薬の搬出を許せば、「国家一朝事あるの日、何を以て之に応ぜんや」(『西南記伝』)として、草牟田弾薬庫を襲撃し、小銃、弾薬6万発を略奪した。30日、1000人が火薬庫を襲撃して弾薬を奪い、31日、磯の海軍造船所の火薬庫を襲撃し、弾薬2万4千発と小銃を略奪した。

このとき、西郷は大隅半島の小根占で狩猟を楽しんでいた。西郷は平素から私学校の生徒に軽挙妄動を慎むよう戒めていた。西郷に使者が派遣された。報告を受けた西郷は驚いて「ちょーしもた」と絶句した。2月4日、西郷は鹿児島に帰宅した。

◆西郷反乱  2月13日、 湊川神社宮司折田年秀は、故郷鹿児島の動乱を新聞で初めて知り、13日の日記に「鹿児島県下之変動之新聞初而看得。本月一日之変動のみ也」(原文はひらがなカタカナ混在。読みやするためひらがなで統一。以後同)と書いた。

2月15日、「政府に尋問の筋あり」として、50年ぶりの大雪の中、薩軍が鹿児島を出発した。京都神戸間鉄道開通式の10日後である。このとき、天皇は京都にいた。

◆折田日記  2月15日、折田は日記に「一、昨今より近衛兵幷に海軍等、追々繰り込みたり、大凡四千余人なり、軍艦も同断、入津に及候、一、鹿児島変動之音容、然れとも確報ならす」と書いた。開通したばかりの鉄道で続々と兵員が神戸駅に到着した。

2月16日、内務卿大久保利通が船で神戸に到着し、汽車で京都へ行った。天皇に拝謁するためある。

折田は、2月17日の日記に、「一、当日も海・陸軍、大凡六百人余繰り込みたり、一、大久保内務卿、昨十六日東京より着津、当日上京なり」と書いた。

2015年6月15日月曜日

神戸山手大学公開講座「西南戦争と神戸」2015年7月4日(土)1400~1530 於:神戸山手大学3号館

神戸山手大学公開講座「西南戦争と神戸」

1. とき・ところ:2015年7月4日(土)1400~1530 於:神戸山手大学3号館
(地下鉄県庁前駅北へ10分、相楽園西隣)

2. 講師:楠本利夫(国際関係学博士、芦屋大学元教授)

3. テーマ:西南戦争と神戸
 明治10年2月5日、神戸京都間鉄道開通式が、天皇臨席のもと盛大に開催された。その10日後、鹿児島で陸軍大将西郷隆盛が挙兵した。開通したばかりの鉄道は軍事輸送に利用され、神戸に兵站基地「運輸局」が設置された。西南戦争で開港場神戸がどのような役割を果たし、西南戦争が神戸にどのような影響を与えたのかを、薩摩出身の湊川神社初代宮司・折田年秀の日記等とからめて講演する。

4. 有料 1200円(資料代)

5. 申し込み 078-351-7170 (山手大学地域社会連携センター)
 先着順。余裕があれば当日受付も可。

2015年5月25日月曜日

「神戸京都間鉄道開通式(5) 西南戦争」 『セルポート』150521号


神戸京都間鉄道開通式(5) 西南戦争

    
◆鉄道開通  明治10年の神戸は、新しい時代の到来と、古い時代の終焉を象徴する出来事が起きた年であった。2月5日、神戸京都間鉄道の開通式典が盛大に行われた。その10日後、西郷隆盛が挙兵(西南戦争)し、政府は神戸に戦争制圧の兵站基地(運輸局)を置いた。

明治政府が成立してからすでに10年が経過していた。政府は、政権基盤を安定させるための制度改革とインフラ整備を、一歩一歩、実施してきた。その道のりは決して平たんではなかった。

◆佐賀の乱  神戸京都間鉄道開通の3年前、明治7年5月11日、神戸大阪間が開通した。この年の2月1日、元参議の江藤新平が佐賀で乱をおこした(「佐賀の乱」)。18日、反乱軍は県庁を占領した。内務卿大久保利通は、軍事・刑罰の全権を付与されて現地に赴いた。

湊川神社折宮司田年秀は、日記に「二月十八日、肥前佐賀県士族沸騰の由ニて、兵隊等繰出し相成り候由、姫路辺ニても百姓一揆之情状なり、内務卿大久保佐賀県江参る之由ニて、当港江滞泊也」(ひらがなカタカナ混在)と書いた。3月1日、乱は鎮圧され、江藤は4月13日に斬首された。裁判での江藤の動揺ぶりを大久保は醜態と嘲笑った。

折田も大久保も薩摩出身である。折田は大久保の人間性を冷ややかに見ていた。後に大久保が暗殺されたとき、折田は日記に辛辣な言葉を残した。

◆士族たちの反乱  神戸京都間鉄道開通の前年の明治9年3月28日、政府は士族の帯刀を禁止した(「廃刀令」)。8月5日、政府は、士族の家禄を廃止し、代わりに公債証書を支給することとした(「金禄公債証書発行条例」)。帯刀の名誉を奪われ、生活を脅かされることとなった士族は全国で反発した。ちなみに、札幌農学校が開校したのは、この年の8月14日である。

10月24日、熊本で敬神党(神風連)が決起し、太田黒伴雄が200名を率いて熊本鎮台を襲撃した。熊本県令安岡良亮、熊本鎮台司令長官種田政明らが殺害された(「神風連の乱」)。敬神党は幕末の尊王攘夷思想家の林 桜園を師とする士族集団で、重大な方針を決する際、「宇気比」(うけい)という方法で神慮を仰いでいた。明治7年の「佐賀の乱」の際、宇気比の結果が「否」と出たため、決起を見合わせた。今回は挙兵を「可」とする神託を得ていた。けれども、乱は25日に鎮圧された。

27日、太田黒に呼応して、旧秋月藩士宮崎車之助が230名を率いて挙兵したが、鎮圧された(「秋月の乱」)。

28日、元参議前原一誠が、萩で300名を率いて決起し県庁を襲撃した。10月31日、反乱軍は政府軍と交戦したが敗れ、11月5日、前原は島根県で逮捕された(「萩の乱」)。

◆鹿児島の変動  鹿児島では私学校党が、1月29日から2月2日にかけて、政府の弾薬庫と造船所を襲撃して武器、弾薬を略奪した。折田は、2月12日の日記に「鹿児島県下変動之新聞初而看得、本月一日之変動のミ也」と書いた。

2015年5月23日土曜日

論文「芦屋における大楠公崇敬施設の系譜」(芦屋学研究会紀要 『芦屋の風』第2号 2015.4.20

論文
楠本利夫「芦屋における大楠公崇敬施設の系譜」
(芦屋学研究会紀要『芦屋の風』第2号 2015.4.20

(目次)
はじめに
1 大楠公戦跡碑
(1)大楠公戦跡碑境内の施設
(2)「大楠公戦跡碑略記」の案内板
(3)「斎藤幾太翁像」石碑案内板
(4)大楠公戦跡碑
(5)大楠公戦跡碑の碑文、案内板と打出の合戦

2 大楠公戦跡碑建立の経緯と現況
(1)大楠公戦跡碑の土地現況
(2)大楠公戦跡碑建立
(3)斎藤幾太
(4)大楠公戦跡碑と阪神淡路大震災

3 徳重中堂と打出楠公社
(1)打出楠公社
(2)徳重中堂

4 大楠公戦跡碑と打出楠公社の意義と課題
(1)なぜ芦屋に大楠公崇敬施設が創建されたのか
(2)大楠公戦跡碑の意義
(3)大楠公戦跡碑保存の課題
おわりに

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 『芦屋の風』B5版 173ページ
 価格 1500円(消費税別)

 お問い合わせ先:芦屋学研究会事務局長 若林伸和
  (659-0062)芦屋市宮塚町5-9-205 090-3820-6642 ashiya@office.nifty.jp

2015年5月11日月曜日

『セルポート』とは


『セルポート』

筆者が、「神戸今昔物語」と題して、神戸近現代史紹介シリーズを連載している『セルポート』とは「セルポート社」が発行する行政専門紙です。
同紙の主たる読者は、兵庫県と神戸の幹部です。
発行は月3回(1日、11日、21日)で、定価は毎月1850円(税込)です。

筆者は、1999年12月1日以来、毎号、同紙に連載しています。これまで連載タイトルは「移住坂」「居留地百話」「神戸今昔物語」としてきました。

『セルポート』社の連絡先は次のとおりです。

株式会社セルポート
   神戸市中央区中山手通4丁目22-11
   電話:078-242-1161、ファックス178-242-0900
   Email;selport@memenet.or.jp

2015年5月10日日曜日

「神戸京都間鉄道開通式(4) 式典」『セルポート』150501号


神戸京都間鉄道開通式(4) 式典

 

◆鉄道開通  明治10年2月5日、大阪駅、神戸駅、七条駅(京都)で、神戸・京都間の鉄道開通式典が行われた。

神戸・大阪間は、明治7年5月11日に運転を開始した。

明治9年7月、大阪・向日町間の工事が完成した。9月には、京都大宮通に仮駅が設けられ、京都・神戸間が開通した。

明治10年1月29日、海路神戸に到着された天皇は、神戸駅から京都駅まで、開通したばかりの鉄道で移動された。

◆開通式典  2月5日、天皇は午前8時40分に京都御所を出て、9時30分に汽車で七条駅を出発し、10時30分に大阪停車場に到着された。途中の駅には停車していない。

大阪駅での式典後、天皇は、午前11時10分に汽車で大阪駅を出発し、12時15分に神戸駅に到着された。天皇到着に合わせて、停泊中の艦船は祝砲を放ち、兵庫県権令森岡昌純と神戸在勤の官庁と停泊中野艦船の奏任官以上がホームで奉迎した。

 式典には、皇族、内閣顧問、宮内卿、大臣、参議、勅任官、奏任官、外国公使、領事、建設関係者等が列席した。居留外国人を代表して、玉座の天皇に、居留地行事局議長の米国領事ネイザン・ニューウイッター(Nasan J. Newwitter)が祝辞を述べた。行事局は外国人居留地の自治機関で、領事、居留民代表、県知事で構成していた。このとき、米国領事館は居留地35番にあった。場所は、現在の地番では西町35で、大丸百貨店の道路を隔ててすぐ南、鯉川筋沿いの区画で、三井神戸ビルに東京スター銀行神戸支店が立地している。

 続いて、兵庫県民を代表して、兵庫県権令森岡昌純が祝辞を述べた。

 午後2時、天皇は、汽車で神戸駅を出発し、京都駅に午後4時に到着し、駅内での式典に臨まれた。太政大臣三條実美が祝辞を述べた。

鉄道開通の勅語は「西京神戸間鉄道工竣ルヲ告ク朕親臨シテ開業ノ典ヲ行フ汝百官拮据経営此工事ヲ完成シ衆庶ト興ニ慶祝スル事ヲ得ル朕深ク之ヲ嘉尚ス」である。

 「東京日日新聞」(2月6日号)は「此日は昨夜よりの雪にて、道路も殊に悪しかりしが、遠近より此盛典を拝見せんと両三日前より、西京、大坂、兵庫ともに集り来る者は幾百万と云う数を知らず、何処も人の山を成して其賑やかなること前古に比類なしと謂うべし」と報道した。

2月14日付の同紙は、「京都より兵庫の辺まで、二三里の間は、処として国旗の翻へざる地も無く、軒ごとに紅灯を点し、或は種々の造り物を出し杯して、礼服高帽の欣々然と馳せ回る有様は、いかにも目出たき景色なり」と書いた。

◆折田の式典見物  折田も式典見物に行った。この頃、折田は妻の染の言動に辟易していたが、病み上がりで体力に自信がなかったので、妻を同伴させた。

「二月五日晴、 

 一、当日は本所幷ニ大阪西京鉄道開業式御執行ニ付、聖上御臨御、第十二時ヨリ相初リ候事、

病中ニ付家内共拝見ニ差出候事、

   一、本日者、兵庫・神戸大ニ賑ヒ、人民親シク奉拝龍顔候」

「神戸京都間鉄道開通式(3) 折田宮司の憂鬱」『セルポート』150421号


神戸京都間鉄道開通式(3) 折田宮司の憂鬱

 

◆折田の風邪  明治10年1月28日、明治天皇が神戸に行幸された。

 折田は風邪で1月15日から寝込んでいたが、この日、早朝から宗教関係者100余名を率い、栄町の道路に整列して、騎馬で行進する天皇を出迎えた。 

 2月3日、折田の体調は回復し、日記に「病気快気に付、臥床ヲ沸候事」と書いた。

◆鉄道開業式  2月5日は神戸京都間の鉄道開通式である。天皇は、京都,大坂、神戸の各駅での式典に臨御された。

折田は、病み上がりで体力に自信がなかったので、式典見物に夫人を随行させた。

 「二月五日、晴、当日ハ、本所、幷ニ、大阪西京鉄道開業式御執行ニ付、聖上御臨御、第十二時ヨリ相初リ候事、病中に付、家内共拝見ニ差出候事」(読みやすくするため、句読点を追加した)。 

◆折田の憂鬱  2月8日、折田は、「死」を決意した。

「二月八日晴 一、此内より染事、諸事疑念ヲ生シ、一日トシテ苦情ナキハナシ、病床中、甚以困難ニ不堪、心中如掣、仍而、死ヲ一決シテ、滋養食、薬品を拒絶し、終日平静専ラ神ニ禱リ、夙ニ死去センコトヲ祈念シ、終日黙座セリ」。

、折田夫人の染が、諸事に「疑念」を持って折田に苦情を言わない日がなく、病床の折田は、それが耐えがたく不快であるため、死を決意し、滋養食と薬を拒否して、終日平城に神に祈り、できるだけ早く死ぬことを祈念して、終日、黙坐していた、と書いているのである。

日記には具体的な事情は書いていない。折田はなぜ死を決意したのか。

2月9日、「終日黙座、神明ニ死ヲ祈ル耳」。

10日、折田は午睡中、突然、神託を得た。「二月十日、晴、一、本日、午後二時、午睡之処、不図神託ヲ得タリ、大丈夫、一婦人之為ニ死スルトハ何事ソ、苟も意ニ適セさる有ラハ、離別暇ヲ出シ可然ト、仍而大ニ諭リ直ニ起上リ、神拝奉謝、且ツ、染エモ、云々申付ケ、爾来ハ、親元江可差返旨厳敷相達シ、是ヨリ実ニ薬用等ニ掛る」。日記は、送り仮名はカタカナとひらがなが混在している。

神託は「一人の「婦人」のために折田自身が死ぬとは、なにごとか。妻の染に、少しでも折田の意にそぐわないところがあるのなら、離別するのが当然である」というものであった。折田は直ちに起き上がり、神に感謝し、染に対し、親元へ返す旨厳しく申しつけた。

日記に「婦人之為に死する」と書いていることに注目したい。「婦人」とは誰か。「婦人」のことで、染が嫉妬して折田に苦情を言ったのかもしれない。染が心の病気であった可能性も考えられないではない。

結局、折田は染を故郷鹿児島に返すことにした。2月14日、「(略)染、竝ニ、芳、帰県ニ決定ス」。「芳」とは誰か。染のお世話をする女性召使と考えられる。

◆西南戦争  鹿児島では、西郷隆盛が挙兵し、風雲急を告げていた。鹿児島出身の折田は気が気でなかった。「二月十二日、晴」「鹿児島県下の変動之新聞初而看得、本月一日の変動ノミ也」。