「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(80)
『豪商 神兵 湊の魁』(8)~海運業の芽生え(2):加納宗七(続)~
◆生田川付替 もともと生田川は現在のフラワーロードを流れていた。普段はほとんど水がないこの川は、いったん大雨が降ると濁流が堤防を越えて外国人居留地を水浸しにした。下流左岸の外国人墓地では土葬死体が露出することもあった。外国人は兵庫県に堤防改修を要請した。
明治3年、外務大輔寺島宗徳が民部省、大蔵省の役人とともに現地調査し、堤防改修より流路付替えが工費は安いと結論付けた。
明治4年3月1日、新流路が決定した。生田川は布引からまっすぐ南へ付け替えることになった。川口は旧川口の900㍍東に決まった。付替えの事業主体は兵庫県である。
6日、新流路沿いの生田村と脇浜村の住民14戸に、3日の期限を切って立退き命令が出された。生田川上流の水車小屋では、菜種油絞り、酒米の精米、素麺粉作り等が行われていた。川水は農業用水でもあった。宗七は、立退き交渉、水利権調整等に力量を発揮した。立ち退きは3日後の3月9日に完了した。工事は3月10日に着工し、6月9日に完成した。人力による工事としては驚くべき短工期であった。
◆河川敷市街地整備 兵庫県は、旧河川敷の市街地整備事業者を入札に付した。宗七の娘婿の有本明が一番札、宗七が2番札であった。宗七と有本は共同で事業を請負った。
工事は明治4年11月に着手し、6年5月完成した。南北に10間(18.18m)道路、東西に6間(10.8m)道路5本が通る、堂々とした市街地(13.8ha)が完成した。南北道路は現フラワーロードである。当時、西国街道が2~3間(3.6~5.4m)、海岸通が5間(9m)であった。人々はそれまで見たことがない広い道路に目を見張った。明治6年11月に完成した栄町ですら、県は10間道路にしようとしたが「道路幅が広すぎる」との反対にあい、結局、道路幅員は9間となった。
幅員が広い道路は、街の減災、円滑な交通、街の格向上の効果がある。半面、売却可能面積は減少する。今日のフラワーロードから、145年前に、商人宗七が、事業収支よりも幅員が広い道路を選択した先見性が伝わってくる。
◆土地はなぜ売れなかったのか 宗七が造成した土地はまったく売れなかった。理由の第1は、維新政府の先行きへの不透明感であった。維新政府は、政権奪取後に勃発した戊辰戦争には勝利したものの、その前途はまことに多難であった。実際、廃藩置県後、全国で不平士族が反乱を起こしている。第2は、住民の外国人への警戒感である。住民が外国人居留地の近くに土地を購入することを嫌がったからである。第3は、地租改正が具体化すると土地に高率の税金がかけられ、地価が下落するかもしれないと考えられていたからである。
結局、志摩三商会の小寺泰次郎が土地を破格の坪10銭で購入した。志摩三商会は、明治5年11月に、三田藩最後の藩主九鬼隆義らが栄町通に設立した輸入薬品機械商社で、不動産取引と闇金融で巨利を得ていた。後に、九鬼と副社長の小寺は、神戸の長者番付に名を連ねることになる。
生田川付替え跡地(左)と新生田川(右)(『兵庫県史 第5巻』