「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(76)
『豪商 神兵 湊の魁』(4)~居留地競売~
◆『豪商 神兵 湊の魁』 『豪商 神兵 湊の魁』(明治15年11月)は、神戸区の「先端企業名鑑」「商工名鑑」である。同書には神戸と兵庫の事業者574が掲載されている。
◆神戸開港 「安政五か国条約」で開港場として取り決められたのは神戸ではなく兵庫であった。天皇が兵庫開港に反対していたので、朝廷は開港勅許を出さなかった。慶應2年12月22日、天皇が突然崩御された。
将軍慶喜は「外国との約束をまもるべき」として、朝廷に兵庫開港勅許を再三迫った。
慶応3年5月24日、ついに朝廷は開港勅許を出した。幕府が各国と取り決めた開港日まで半年余しかない。当時、兵庫は北前船の拠点、西国街道の宿場町として繁栄していたので、住民は開港を嫌がり現状維持を望んだ。幕府は兵庫に替えて神戸村を開港場とすることとし、海岸沿いに外国人居留地を建設した。
◆居留地競売 開港日、居留地は建設中であった。世界中から来航した外国人は居留地周辺の民家を借り上げて居留地の完成を待った。領事館も居留地の外に開設された。外国人を困らせたのは法外な家賃と日本食であった。刺身とみそ汁は口に合わない。
居留地競売の詳細は、明治元年6月19日に「大阪兵庫外国人居留地約定書」でとり決められた。居留地の永代借地権競売は4回に分けて行われた。
第1回競売は明治元7月24日(1868.9.10)で、36区画を5か国30人が落札した。落札できなかった貿易商は、次の入札まで待たなければならなかった。
第2回競売は明治2年4月21日(1869.6.1)であった。25区画に4か国と行事局が落札した。第3回競売は明治3年4月16日(1870.5.16)で、60区画を42事業者が落札した。第4回競売は明治6年2月17日(1873.2.17)で5区画を4事業者が落札した。
126区画すべての競売完了まで4年半の歳月がかかっている。
国別内訳は、イギリス64区画(50.8%)、ドイツ23(18.3)、オランダ15(11.9)アメリカ11(8.7)、フランス11(8.7)、イタリア1(0.8)、行事局1(0.8)であった。
◆中国人 開港した年の8月、神戸に数人の中国人が横浜、長崎から神戸に来た。
欧米人貿易商は商館の運営に、中国人を番頭として使用することが多かった。明治4年240人だった神戸の中国人は、明治15年には692人となり外国人の7割を占めた。
清国が日本との締約国ではなかったので、中国人は居留地競売に参加できなかった。彼らは雑居地に土地を求めた。現在も、トアロード、南京町には中国人の所有土地が多い。
作家陳舜臣が生まれ育った海岸通り5丁目の家は「華僑商館の典型的な体裁」で「一階が倉庫、二階が事務所、三階が住居」であった。戦前、「海岸通りと栄町通」の中間の道路の両側には中国人の「海産物問屋がずらりとならんでいた」(『神戸ものがたり』)。
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