神戸今昔物語(第517号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(60)
津田三蔵と神戸
◆津田三蔵 明治24年5月11日、大津で巡査津田三蔵(1855~1891)が、ロシア帝国ニコライ皇太子にサーベルで切りつけて負傷させた(「大津事件」)。津田の動機の一つに、事件前に三井寺で、西南戦争忠魂碑に敬意を払わなかった白人に津田が不快感を持ったこともあった。
◆津田と西南戦争 明治5年3月、津田は東京鎮台名古屋分営(後、名古屋鎮台)に入営し、明治6年4月、金沢営所に配属された。明治8年1月、津田は陸軍伍長に昇進した。
明治10年2月15日、西郷隆盛が挙兵し、22日、西郷軍が熊本鎮台の攻撃を開始した。津田が所属する金沢の大隊は、別動旅団に編入されて、3月20日に日奈久(現八代市)に上陸し、熊本城を包囲する西郷軍の背後を衝いた。
3月26日、津田は、戦闘中に左手人差し指と中指の間の貫通銃創を受け、八代包帯所で応急手当てを受けた後、長崎海軍病院に入院した。5月20日、退院した津田は、熊本大本営に出頭し、26日、船で鹿児島に渡り原隊に復帰した。
◆戦争終結 9月24日、西郷の自刃で戦争は終結した。
津田は、母宛の25日付け書簡で「当月廿四日午前、第四時ヨリ大進撃ニテ、大勝利、魁首西郷隆盛、桐野利秋ヲ獲斃シ大愉快之戦ニテ、(略)、此日、楽隊音楽ヲ奏シ、各部隊ニ日ノ丸ヲ掲ゲ 戦士ハ凱歌ヲ歌ヒ、勇気山ヲ抜ク」(樋爪修「津田三蔵書簡について」)と書いた。
◆西南戦争とコレラ 戦争終結で、帰還兵を満載した船が鹿児島から続々と神戸に到着した。
明治10年9月22日、神戸に着いた亀福丸に乗っていた帰還兵のうち7名がコレラを発病し4名が死亡した。兵庫県は海岸通2丁目に検疫委員出張所、和田岬に検疫消毒所を設置し、入港船の検疫を実施した。9月30日から10月2日までに、帰還兵の発病者は402名で、うち死亡者は108名に達した(「兵庫県検疫委員報告」明治10年10月6日)。さらに、10月だけで414人が発病し、この年、神戸市内だけで市民と帰還兵を合わせて903人が発病し、うち700人が死亡した。
なぜ帰還兵からコレラか。この年7月、中国アモイでコレラが発生した。8月19日、上海から長崎に寄港した英国船船員がコレラに感染していた。コレラが中国から九州に入り広がった。
◆津田、神戸に帰還 9月29日午後4時頃、津田は鹿児島から軍艦孟俊(357㌧)で神戸に到着した。帰還兵は軍艦と商船で輸送した。この日、鹿児島から、軍艦とは別に、住之江丸、敦賀丸(661トン)、兵庫丸(896トン)が、帰還兵を満載して神戸に到着している(カット参照)。3隻とも岩崎弥太郎の所有船で、船長は外国人であった。
津田は、10月2日付の母宛の手紙で「上陸後、万自由ヲ得、恰も、別世界に蘇生スル心地仕、上陸後、愉快ヲ相極罷募リ候」と書いた(「上掲論文」)。
(津田の帰還艦名は大津市歴史博物館樋爪修館長にご教示いただいた。お礼申し上げる。)