神戸今昔物語(第494号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(37)
連載15年目に
◆明治神戸の歴史 神戸開港以後の出来事を、湊川神社折田年秀宮司の日記と併せて、1年ごとに紹介している。折田は強引な猟官活動の末、別格官幣社湊川神社の初代宮司という栄えあるポストを獲得した。折田が神社に着任したのは明治6年である。この年2月にキリシタン禁制高札が撤去され、政府はキリシタン布教活動を黙認することとなった。欧米派遣中の岩倉具視が訪問国で日本の宗教政策についてクレームを受けたため、政府は、条約改正交渉に不利になると判断し、高札を撤去した。それでも政府は相変わらず外国人宣教師の布教活動に神経をとがらせていた。教部省から教導職に任命されていた折田は、兵庫県内の神道普及責任者でとして、異教キリスト教徒の活動に目を光らせていた。
明治8年の神戸での出来事を紹介しているとき、折田が監視していた旧三田藩主九鬼隆義が「神戸ホーム」に支援していることを書き、そのまま、神戸ホーム、神戸英和女学校(明治12年)、神戸女学院(明治27年)へと改称し発展してきたこの学校の歴史を紹介してきた。というわけで、連載の神戸歴史紹介は、明治8年で止まっている。次号以下で、引き続き、神戸の歴史と折田日記のかかわりを紹介していきたい。
◆連載16年目 この連載は今号で16年目に入る。連載を始めたとき、筆者は現職の地方公務員であった。連載のきっかけは、筆者たちが推進していた「神戸海外移住者顕彰事業」を、『セルポート』紙面を通じて広く伝えるためであった。
市民運動の結果、メリケンパークには「海外移住者家族像」(2001年4月28日除幕式)が完成し、諏訪山下の旧移民収容所(昭和3年開業)は「市立海外移住と文化の交流センター」として市が保存活用することになり、2つの施設をつなぐ坂道は世界につながる「移住坂」として整備されることになった。運動を始めたときは、神戸でも、まだ移住者への差別、偏見が残っていた。「移民は暗い。暗いイメージは神戸のイメージに合わない」「移住者は現地で苦労したので、祖国日本を恨んでいる」「移住者の家族は身内に移住者がいることを言いたがらない。いまさら寝た子を起こすな」などの意見が圧倒的に多かった。
それでも、内外から寄せられ2650万円の募金を原資として、メリケンパークに移住者家族像を建立することができた。「神戸移住三点セット」(旧移民収容所、移住坂、移住者家族像)は、神戸観光のスポットとなっている。
◆「年々歳々・・歳歳年年・・」 連載15年、タイトルも「移住坂」「居留地百話」「神戸今昔物語」と変えてきた。筆者も役所を退職し教員になった。貝原俊民前知事を始め、連載に貴重なコメントをくださっていた方々の何人かは鬼籍に入られた。「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」を実感している。
紙面を提供してくださっている『セルポート』と、読者の皆様に心から感謝しお礼申し上げる。
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