2014年12月26日金曜日

神戸今昔物語 連載15年目


神戸今昔物語(第494号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(37

連載15年目に

◆明治神戸の歴史  神戸開港以後の出来事を、湊川神社折田年秀宮司の日記と併せて、1年ごとに紹介している。折田は強引な猟官活動の末、別格官幣社湊川神社の初代宮司という栄えあるポストを獲得した。折田が神社に着任したのは明治6年である。この年2月にキリシタン禁制高札が撤去され、政府はキリシタン布教活動を黙認することとなった。欧米派遣中の岩倉具視が訪問国で日本の宗教政策についてクレームを受けたため、政府は、条約改正交渉に不利になると判断し、高札を撤去した。それでも政府は相変わらず外国人宣教師の布教活動に神経をとがらせていた。教部省から教導職に任命されていた折田は、兵庫県内の神道普及責任者でとして、異教キリスト教徒の活動に目を光らせていた。

明治8年の神戸での出来事を紹介しているとき、折田が監視していた旧三田藩主九鬼隆義が「神戸ホーム」に支援していることを書き、そのまま、神戸ホーム、神戸英和女学校(明治12年)、神戸女学院(明治27年)へと改称し発展してきたこの学校の歴史を紹介してきた。というわけで、連載の神戸歴史紹介は、明治8年で止まっている。次号以下で、引き続き、神戸の歴史と折田日記のかかわりを紹介していきたい。

◆連載16年目  この連載は今号で16年目に入る。連載を始めたとき、筆者は現職の地方公務員であった。連載のきっかけは、筆者たちが推進していた「神戸海外移住者顕彰事業」を、『セルポート』紙面を通じて広く伝えるためであった。

市民運動の結果、メリケンパークには「海外移住者家族像」(2001428日除幕式)が完成し、諏訪山下の旧移民収容所(昭和3年開業)は「市立海外移住と文化の交流センター」として市が保存活用することになり、2つの施設をつなぐ坂道は世界につながる「移住坂」として整備されることになった。運動を始めたときは、神戸でも、まだ移住者への差別、偏見が残っていた。「移民は暗い。暗いイメージは神戸のイメージに合わない」「移住者は現地で苦労したので、祖国日本を恨んでいる」「移住者の家族は身内に移住者がいることを言いたがらない。いまさら寝た子を起こすな」などの意見が圧倒的に多かった。

 それでも、内外から寄せられ2650万円の募金を原資として、メリケンパークに移住者家族像を建立することができた。「神戸移住三点セット」(旧移民収容所、移住坂、移住者家族像)は、神戸観光のスポットとなっている。

◆「年々歳々・・歳歳年年・・」  連載15年、タイトルも「移住坂」「居留地百話」「神戸今昔物語」と変えてきた。筆者も役所を退職し教員になった。貝原俊民前知事を始め、連載に貴重なコメントをくださっていた方々の何人かは鬼籍に入られた。「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」を実感している。

紙面を提供してくださっている『セルポート』と、読者の皆様に心から感謝しお礼申し上げる。

※ 本稿から引用する場合は、必ず、当ブログからの引用と明記してください。

日本パン学会設立 神戸パン略史(「神戸今昔物語496号」『セルポート』2014.12.21号)

神戸今昔物語(通算第496号)湊川神社物語(第2部)
     「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(39
 
日本パン学会(2) 神戸のパン略史

 ◆吉田茂と神戸のパン 美食家として知られている吉田茂首相(18781967)は、フロインドリーブのパンを気に入り、わざわざ飛行機で神戸から取り寄せた逸話がある。子息の英文学者吉田健一も、随筆『舌鼓ところどころ』に、「何しろここのパンは旨くて、ドイツ風のパンということになってゐるが、妙な香料が混ぜてある訳ではないし、パンもここまで行けば、フランス風もドイツ風もない」と絶賛している。

 なぜ、神戸のパンはおいしいのか。神戸のパンは、いつ頃から全国に知られることになったのか。

◆神戸のパン略史  

1868(明治元):神戸開港(外国人居留地開設、外国領事館、外国商館開設)。

1869(明治2):スエズ運河開通(欧州と極東の物流、人流が盛んになる)。

1873(明治5):湊川神社創建。

1874(明治7):神戸大阪間鉄道開通。

1877(明治10):神戸京都間鉄道開通。

1878(明治11):芳香堂(元町3丁目)の新聞広告「焦製飲料コフィー」。

1882(明治15):『豪商神兵 湊の魁』に「ビール・パン製造所」、芳香堂。

1899(明治32):外国人居留地返還。

1905(明治38):「藤井パン」(第2次大戦後「ドンク」と改称)創業。

1914(大正3)~1918(大正7):1次大戦(青島のドイツ兵捕虜が日本の捕虜収容所に)。

1917(大正6):ロシア革命(白系ロシア人多数が来神)。

1923(大正12):関東大震災(関東から多くの外国人が神戸に来住)。

1945(昭和20):第2次大戦終結。

1973(昭和48):神戸市「ファッション都市宣言」。

1977(昭和52)~7853):NHK連続テレビ小説「風見鶏」。

1981(昭和56):ポートアイランド博覧会。

◆神戸のパンが全国に  1868年の神戸開港で外国人がもたらした神戸のパン作りの技を、第1次大戦、ロシア革命、関東大震災で神戸に移住してきたドイツ人、ロシア人職人がさらに発展させた。

1973年、神戸市は「ファッション都市」を宣言し、アパレル、食品等の「生活文化産業」を、神戸を支える産業のひとつと位置付けた。続いて、NHK連続テレビ小説「風見鶏」が、異人館を舞台にドイツ人パン職人と日本人女性を取り上げたことで、異人館ブームが起き神戸のパンが一気に有名になった。さらに、「ポートアイランド博覧会」で、おしゃれな街神戸のイメージが定着した。

◆日本パン学会  今年12月、「日本パン学会」を立ち上げた。パンに関する学際的研究により、パン文化のより一層の振興と発展をはかるためである。事務局は、芦屋大学に設置する。学会設立のきっかけは、筆者がお手伝いをしている「神戸市シルバーカレッジ」国際文化協力コースのシニア学生たち(平均年齢70歳)が、20143月に研究報告書「神戸・パン物語」を発表し、パンに関する学際的研究を提唱したことである。




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2014年12月13日土曜日

日本パン学会設立 神戸のパンはいつから「全国区」になったのか


神戸今昔物語(第495号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(38

 
「日本パン学会」設立~神戸のパンはいつから「全国区」になったのか~

 
◆日本パン学会  明治神戸の歴史を、湊川神社宮司「折田年秀日記」とからめて、一年毎に紹介している。ここで少し脱線して、神戸のパンが全国に知られるようになった歴史を披露したい。「日本パン学会」を、今月立ち上げるためである。学会の目的は、パンに関する「学際的研究」を深めパン文化のより一層の振興・発展をはかることである

◆開港・第1次大戦・ロシア革命  神戸のパンの歴史は1868年の開港から始まる。神戸開港で、各国は外国人居留地に領事館を開設し、貿易商が商館を構えた。日本国内からも人々が移住してきた。日本国内で外国人が珍しかった当時でも、神戸では「隣人は外国人」はありふれた情景であった。神戸の住民は、外国人のライフスタイルを積極的に吸収し、パンも抵抗なく受け入れて神戸にパン文化を根付かせた。明治15年の商工録『神兵湊の魁』に早くもパン製造所の広告が載っている。

1次大戦、ロシア革命、関東大震災が神戸のパン文化発展に大きな影響を与えることになった。第1次大戦後、日本国内の捕虜収容所に収容されていたドイツ兵捕虜、ロシア革命を逃れた白系ロシア人、関東大震災で東京・横浜から震災を逃れた外国人たちである。その中にいたパン職人たちが、神戸のパン文化の深化に大きな貢献をした。神戸には外国領事館があり外国人が多かったことも、戦争、革命、震災を逃れた外国人の神戸定住促進に役だった。

◆ファッション都市宣言  第2次大戦後、神戸のパンは、「知る人ぞ知る」存在であった。昭和30年代前半、神戸のパンを絶賛した東京の文化人もいた。それでも、神戸のパンはまだ「地方区」的であった。神戸のパンを「全国区」に押し上げるきっかけとなったのは、昭和48年の神戸市「ファッション都市宣言」である。

ファッション都市宣言をした背景はなにか。それは、昭和39年制定の工場等制限法」である。法の目的は、大都市の「制限区域」への人口・産業の過度集中を防ぐことであり、制限区域での一定面積以上の工場や大学の新増設等を制限し市外への移転を促進することであった。

◆生活文化産業  それまで神戸の経済を支えてきたのは造船、鉄鋼、ゴム、食品の製造業と港湾であった。神戸から大規模工場が抜け出せば神戸はどうなるのか、関係者は頭を抱えた。

けれども、神戸には開港以来の国際的な文化が根付いていた。アパレル産業も育ちつつあった。神戸市は、ファッション都市宣言と合わせて、「生活文化産業」を、神戸を支える産業の一つの柱と位置付けた。アパレル、ケミカルシューズ、真珠等、パン、食料品等を、神戸の将来を担う産業とみなした。神戸の歴史が育ててきた神戸人のライフスタイルがそのまま生活文化産業に結実した。

 ファッション都市宣言に続いて、NHK連続ドラマ「風見鶏」(昭和5253年)で神戸ブームが起き、ポートピア博覧会(昭和56年)が神戸ブランドを全国区に押し上げた。




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