神戸今昔物語(通産第491号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(34)
神戸ホーム創立(明治8年)(7)「鹿鳴館外交」
◆神戸ホーム 明治6年、政府は切支丹禁教の高札を撤去した。2年後、米国人女性宣教師が山本通に女子寄宿学校「神戸ホーム」を創設した。当初、キリスト教系女子寄宿学校に違和感を持つ住民は少なくなかった。追い風となったのは井上馨外務卿の欧化政策であった。
◆欧化主義 明治12年に外務卿に就任した井上は、欧化主義を標榜した。
明治13年7月、井上は駐日ドイツ公使に「吾輩ノ志は(略)各国人民の文明教化ヲ伝習スルニアリ(略)、吾輩ノ願ヒハ、泰西ノ各大国ト同等ノ権利ヲ有シ、同等ノ地位ヲ占メントスルコトニアリ」と語った。日本人が外国人から文明を学び、日本が西欧の国と対等の権利と地位を持つことを願うという内容である。
◆条約改正予備会議 明治15年1月25日、井上は、外務省において、欧州の締約国(英国、ドイツ、フランス、オーストリア、ロシア、イタリア、スペイン、オランダ、スイス、スエーデン、ノルウエー、デンマーク)代表と「条約改正予備会議」を主催した。議事は井上が進行し、討議対象を、明治2年に明治政府がオーストリアと締約した条約とした。日本政府が外国側と最後に結んだこの条約は日本側にとり最も不利益な内容であったためである。予備会議は7月27日まで、法権、関税、貿易等について計21回開催していったん閉会した。会議結果を本国政府に報告して訓令を得た上で、再度、会議を催すためである。
◆鹿鳴館 明治16年11月28日、外国賓客を接待するための迎賓館として鹿鳴館の落成式が行われた。煉瓦造2階建て延べ1450㎡の鹿鳴館の落成式で井上は、「国境の為に限られざるの交誼有情を結ばしむる場」と説明した。鹿鳴館では、井上外務卿、大山巌参議、森有礼文部卿とその夫人たちの尽力で、西洋風の夜会、舞踏会、化装会、婦人慈善会等が頻繁に開催された。井上は洋式舞踏会に不慣れな日本人のために、舞踏会マニュアル「内外交際宴会礼式」を自ら編纂した。
さらに井上は、民間人が明治14年頃に創設していた国際交流組織を鹿鳴館に移転し「東京倶楽部」と命名して、皇族、政府高官、民間有力者の外国人との交際の場とした。東京倶楽部では会話はすべて英語に限定し、会員制として一般の入会は認めなかった。
井上は外国人が宿泊する西洋式ホテルが必要であると考え、渋沢栄一、大倉喜八郎、桝田孝を説得し、鹿鳴館の隣地に帝国ホテルを建てさせた。帝国ホテルは明治23年に竣工した。
井上の欧化主義に刺激され、学問、芸術、法規、制度も欧米に倣おうする機運が高まり、羅馬学会、英吉利法律学校、仏学会、和仏法律学会、独逸学会等が設立された。
◆鹿鳴館舞踏会の評価 井上の欧化主義を「社会を挙げて欧米崇拝の風潮に溺没」と批判する声もあった。外国人も鹿鳴館舞踏会を皮肉った。画家ジョルジュ・ビゴーは「猿真似」と笑い、ピエール・ロチは「公(おおやけ)のどえらい笑劇」と風刺した。
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