「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(36)
神戸ホーム創立(明治8年)(9)「学舎移転」
◆神戸女学院 外国人宣教師が明治8年に諏訪山下に創設した女子寄宿学校「神戸ホーム」は、英和女学校(明治12年)、神戸女学院(明治27年)と改称し、高等科設置(明治24年)、専門学校(明治42年、普通部、音楽部)設置を経て、大正8年、「大学令に準拠した大学」を目指すことになった。ちなみに、大学昇格は昭和23年である。学校の発展につれ、諏訪山の土地が手狭になり、移転先を探した。
◆明石大蔵谷 大正10年、神戸女学院理事会は、高等学部を諏訪山に残し大学部の郊外移転を決定した。同窓会が明石大蔵谷に大学部の土地を購入した。山陽電鉄大蔵谷駅の北北東約1km一帯に広がる広大な丘陵地帯である。現在の地名では、明石市東朝霧丘、朝霧山手町、朝霧台である。この場所を選定した理由は、大正6年に兵庫電気鉄道(現・山陽電鉄)の大蔵谷駅ができたこと、敷地が明石海峡に展望が開けた風光明媚な丘陵地であったこと、同窓会の幹部が大蔵谷に近い塩屋に住んでいたこと、明石郡長が神戸女学院とつながりがあったこと等である。
大蔵谷キャンパスには、大学部と音楽部の本館、寄宿舎、運動場、教職員住宅、講堂(1000人収容)等を建設することになった。移転は「大正17年」(1928=昭和3)までに完了する予定で事業費百万円余が計上された。
◆キャンパス設計 設計は、アメリカのマーフィ&ハムリン建築事務所が担当した。マーフィーとハムリンは大正11年に現地調査し、キャンパス計画を提案した。小高い丘から南へ海に向けて広がる段丘に、学舎群と学生寄宿群を配置した壮大な計画であった。
校舎は、南北に走る尾根の左右に配置され、中央に塔、体育館、講堂、総務館兼図書館、礼拝堂、文学館、理学館等が配置された。塔は明石海峡を航行する船から目印になるランドマークであった。
建設着工に待ったがかかった。建設資金のための募金が集まらなかったためである。されに、大正12年に発生した関東大震災で、建物の耐震性が求められることになり、建築計画も見直さなければならなかった。
◆岡田山へ移転 大蔵谷キャンパス建設計画は中断された。学内での議論の結果、大蔵谷は大阪からの距離が遠く学生の通学には不便であるという理由で中止された。
新たな候補地として西宮岡田山が浮上した。神戸女学院は、竹中工務店社主等の仲介により、岡田山の土地と大蔵谷の土地を交換することとし、昭和5年3月に岡田山の用地を入手した。
昭和8年、神戸女学院は全学挙げて岡田山に移転した。「第1回こうべみなとの祭」が挙行された年である。
(参考資料)川島智生「神戸女学院学舎の建築史学(Ⅰ)」(『神戸女学院大学論集』第51巻第1号、2004年7月)