2014年11月28日金曜日

神戸ホーム創立(明治8年)(9)「神戸女学院 大蔵谷移転計画」

神戸今昔物語(第492号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(36

神戸ホーム創立(明治8年)(9)「学舎移転」
 

◆神戸女学院  外国人宣教師が明治8年に諏訪山下に創設した女子寄宿学校「神戸ホーム」は、英和女学校(明治12年)、神戸女学院(明治27年)と改称し、高等科設置(明治24年)、専門学校(明治42年、普通部、音楽部)設置を経て、大正8年、「大学令に準拠した大学」を目指すことになった。ちなみに、大学昇格は昭和23年である。学校の発展につれ、諏訪山の土地が手狭になり、移転先を探した。

◆明石大蔵谷  大正10年、神戸女学院理事会は、高等学部を諏訪山に残し大学部の郊外移転を決定した。同窓会が明石大蔵谷に大学部の土地を購入した。山陽電鉄大蔵谷駅の北北東約1km一帯に広がる広大な丘陵地帯である。現在の地名では、明石市東朝霧丘、朝霧山手町、朝霧台である。この場所を選定した理由は、大正6年に兵庫電気鉄道(現・山陽電鉄)の大蔵谷駅ができたこと、敷地が明石海峡に展望が開けた風光明媚な丘陵地であったこと、同窓会の幹部が大蔵谷に近い塩屋に住んでいたこと、明石郡長が神戸女学院とつながりがあったこと等である。

 大蔵谷キャンパスには、大学部と音楽部の本館、寄宿舎、運動場、教職員住宅、講堂(1000人収容)等を建設することになった。移転は「大正17年」(1928=昭和3)までに完了する予定で事業費百万円余が計上された。

◆キャンパス設計  設計は、アメリカのマーフィ&ハムリン建築事務所が担当した。マーフィーとハムリンは大正11年に現地調査し、キャンパス計画を提案した。小高い丘から南へ海に向けて広がる段丘に、学舎群と学生寄宿群を配置した壮大な計画であった。

 校舎は、南北に走る尾根の左右に配置され、中央に塔、体育館、講堂、総務館兼図書館、礼拝堂、文学館、理学館等が配置された。塔は明石海峡を航行する船から目印になるランドマークであった。

建設着工に待ったがかかった。建設資金のための募金が集まらなかったためである。されに、大正12年に発生した関東大震災で、建物の耐震性が求められることになり、建築計画も見直さなければならなかった。

◆岡田山へ移転  大蔵谷キャンパス建設計画は中断された。学内での議論の結果、大蔵谷は大阪からの距離が遠く学生の通学には不便であるという理由で中止された。

新たな候補地として西宮岡田山が浮上した。神戸女学院は、竹中工務店社主等の仲介により、岡田山の土地と大蔵谷の土地を交換することとし、昭和53月に岡田山の用地を入手した。

 昭和8年、神戸女学院は全学挙げて岡田山に移転した。「第1回こうべみなとの祭」が挙行された年である。

(参考資料)川島智生「神戸女学院学舎の建築史学(Ⅰ)」(『神戸女学院大学論集』第51巻第1号、20047月)

2014年11月7日金曜日

神戸ホーム(神戸女学院)創立 明治8年(7) 鹿鳴館外交 「折田年秀日記」『セルポート』141101号


神戸今昔物語(通産第491号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(34

 
神戸ホーム創立(明治8年)(7)「鹿鳴館外交」
 

◆神戸ホーム  明治6年、政府は切支丹禁教の高札を撤去した。2年後、米国人女性宣教師が山本通に女子寄宿学校「神戸ホーム」を創設した。当初、キリスト教系女子寄宿学校に違和感を持つ住民は少なくなかった。追い風となったのは井上馨外務卿の欧化政策であった。

◆欧化主義  明治12年に外務卿に就任した井上は、欧化主義を標榜した。

明治13年7月、井上は駐日ドイツ公使に「吾輩ノ志は(略)各国人民の文明教化ヲ伝習スルニアリ(略)、吾輩ノ願ヒハ、泰西ノ各大国ト同等ノ権利ヲ有シ、同等ノ地位ヲ占メントスルコトニアリ」と語った。日本人が外国人から文明を学び、日本が西欧の国と対等の権利と地位を持つことを願うという内容である。

◆条約改正予備会議  明治15125日、井上は、外務省において、欧州の締約国(英国、ドイツ、フランス、オーストリア、ロシア、イタリア、スペイン、オランダ、スイス、スエーデン、ノルウエー、デンマーク)代表と「条約改正予備会議」を主催した。議事は井上が進行し、討議対象を、明治2年に明治政府がオーストリアと締約した条約とした。日本政府が外国側と最後に結んだこの条約は日本側にとり最も不利益な内容であったためである。予備会議は727日まで、法権、関税、貿易等について計21回開催していったん閉会した。会議結果を本国政府に報告して訓令を得た上で、再度、会議を催すためである。

◆鹿鳴館  明治161128日、外国賓客を接待するための迎賓館として鹿鳴館の落成式が行われた。煉瓦造2階建て延べ1450㎡の鹿鳴館の落成式で井上は、「国境の為に限られざるの交誼有情を結ばしむる場」と説明した。鹿鳴館では、井上外務卿、大山巌参議、森有礼文部卿とその夫人たちの尽力で、西洋風の夜会、舞踏会、化装会、婦人慈善会等が頻繁に開催された。井上は洋式舞踏会に不慣れな日本人のために、舞踏会マニュアル「内外交際宴会礼式」を自ら編纂した。

さらに井上は、民間人が明治14年頃に創設していた国際交流組織を鹿鳴館に移転し「東京倶楽部」と命名して、皇族、政府高官、民間有力者の外国人との交際の場とした。東京倶楽部では会話はすべて英語に限定し、会員制として一般の入会は認めなかった。

井上は外国人が宿泊する西洋式ホテルが必要であると考え、渋沢栄一、大倉喜八郎、桝田孝を説得し、鹿鳴館の隣地に帝国ホテルを建てさせた。帝国ホテルは明治23年に竣工した。

井上の欧化主義に刺激され、学問、芸術、法規、制度も欧米に倣おうする機運が高まり、羅馬学会、英吉利法律学校、仏学会、和仏法律学会、独逸学会等が設立された。

◆鹿鳴館舞踏会の評価  井上の欧化主義を「社会を挙げて欧米崇拝の風潮に溺没」と批判する声もあった。外国人も鹿鳴館舞踏会を皮肉った。画家ジョルジュ・ビゴーは「猿真似」と笑い、ピエール・ロチは「公(おおやけ)のどえらい笑劇」と風刺した。