2014年2月22日土曜日

折田の上京 「折田年秀日記」(『セルポート』2014.2.11号)


神戸今昔物語(通産第467号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(10

 

折田の上京

 

◆折田年秀日記  『折田年秀日記 第一』は、明治6313日から始まっている。原文は漢字に、カタカナとひらがなが混じっている。

「明治六年酉三月十三日、晴

一、早朝第六宇、旅装して神社を拝礼し、金飾刀備前法光ノ短刀を奉納して、開運之祈念ヲ凝ラシ、

北堂君幷ニ染江も別離を告ケて酒杯を回ラス。時に、西幷ニ小倉等も見得タリ。此度之東上、実に浮沈之決着スル処故ニ、大小着、袴掛袋、フランケ壱枚ニテ出立タリ。七時ニ家を出、人力車ニテ発ス。三邦丸ニ乗船。

一、朝第八宇、揚碇発ス」

旅立ちの朝の緊迫した空気が伝わってくる。

午前6時、旅装で神社に参拝した折田は、短刀を奉納して開運を祈り、その後、友人や家族と別れの盃を交わした。今回の上京は折田にとり、「浮沈之決着」をする大切な旅である。

折田は、帯刀して、掛袋と毛布一枚を持ち、午前7時に家を出て人力車で波止場へ向い、三邦丸に乗り込んだ。船は午前8時に碇を揚げた。廃刀令(太政官布告)が出されるのは、3年後の明治93月である。

折田はこの旅で、大阪、京都、神戸を経て東京へ行き、大蔵省の「八等出仕」を経て、「湊川神社宮司」の辞令を受け取ることになる。

◆大阪、京都、神戸  15日午前10時、三邦丸は安治川に到着した。折田は人力車で阿波座5丁目松江橋西の知人宅で入浴して食事をした。午後4時、折田は、降りしきる雨の中を、人力車で京都へ向い、翌日早朝6時に京都六条に着いた。知人へのあいさつ回りを済ませた折田は、翌16日午前7時、伏見から船で大阪へ淀川を下り、松島から「川蒸気」に乗り換えて、午後720分に神戸に到着し、常盤屋に投宿した。それにしても、強行軍である。

17日、折田は、雪の中を、蒸気船に乗って大阪へ行き、知人宅を訪問して、午後6時、神戸に帰着した。

「十八日 晴

一、早朝楠公社江参詣、開運之祈誓ヲ凝ラシ、帰途、与倉直右衛門江出会、黒田清綱之伝聞云ゝを聞、(略)」

折田が湊川神社に参詣したのはこの時が初めてである。

この時点では、折田はまだ宮司に発令されていない。日記に、折田が、知人の与倉から「黒田清綱之伝聞云ゝを聞」いたと書いている。黒田は薩摩出身の教部小輔である。黒田からの伝聞とは、折田の人事についての情報ではないだろうか。

湊川神社は、前年の明治5525日に創建された。別格官幣社の社格が設けられ、湊川神社は第1

号となった。神社は創建されたが、宮司はまだ決まっていなかった。

◆折田上京  18日午後5時半、折田はオルゴニヤ号で神戸を出発した。19日午前5時に横浜に到着した折田は、新橋まで蒸気船で移動した。折田は、その日、渋沢栄一、松方正義を訪問し、夜は、松方の家に泊めてもらった。薩摩出身の松方は後の総理大臣である。

いよいよ折田の東京滞在が始まった。

折田宮司のキリスト教布教活動監視(3) 「折田年秀日記」(『セルポート』2014.2.1号)


神戸今昔物語(通産第466号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(9

折田宮司の切支丹布教活動監視報告(3

 
◆「洋教捜索之次第」  明治7124、折田年秀が、外国人宣教師による神戸におけるキリスト教布教活動を教部省に報告した。折田はこのとき政府から教導職に任命されていた。

「兵庫神戸洋教方法捜索之次第左に申上候」で始まる報告の宛名は、教部大輔宍戸○、教部小輔黒田清綱である。

折田は、まず、外国人宣教師とその助手の名を挙げた。

「一、神戸中宮八番 米国人名グリン 歳三十五・六歳
  一、右同     右同人妻メべス 歳二十八歳
  一、神戸八番   米国人デべ-ス 歳四十歳
    右医者本職ニテ洋教主張
  一、右洋婦下婢  名阿松 東京ノ産」

「明治初期神戸殿堂と三田藩士」(水軍九鬼氏と三田・神戸の歴史)ネット版、以下同)

続いて、折田は教室の様子を報告した。

説講は、午前8時から12時まで、38人で満席となる教室で行われ、参加者の3分の2は中国人か西洋人の女性であり、西洋人に雇われた召使もいた。

「神戸中宮八番、並、神戸八番、グリーン・メベス、或ハ、デベース共二説講ノ席ハ、午前八時ヨリ始り、十ニ時終ル。聴徒、旧十ニ月七日ヨリ、爾後日曜日に、男女三八人ヲ以テ満席、内三分二分二ハ支那人、又ハ、洋婦人、其一分ハ、洋人召使」(読みやすくするため、句読点を追加した)。

◆熱心な4人の日本人  さらに、折田は、「土地、ニテ特に抽ツルモノ」として、旧三田藩主夫妻、前田泰一、福原の妓楼の娘おつるが、毎回出席したと報告した。

「一、三田旧知事
     右ハ、毎二、七歳位ノ童女ヲ、洋粧二仕立、相携講席、毎二○ク事無シ、極メテ勉強
  一、同人婦人 歳二十六歳、極メテ美婦人
     右、旧知事卜、同ク洋粧(洋婦ノ粧ヲ著)説講聴聞、又怠ラス
  一、前田泰一 福沢諭吉門生、当時生田村定住
     右之者、教師グリン、並ニ、デべ-スニ雇レ、洋教書籍売却ノ周旋ヲ致シ居候事
  一、兵庫福原妓店色葉楼娘阿鶴 歳十八歳 右講席毎二怠ラス、又、洋文字語学伝習、但シ、下

婢壱人随従」

「三田藩旧知事」は、三田藩第13代藩主で最後の藩主九鬼隆義(18371891)である。九鬼は、維新当時から福沢諭吉と親交があり、諭吉から藩政改革の指導を受けて藩内に西洋主義を奨励し、夫妻自らキリスト教を信仰し、家臣をキリスト教徒に導いた開明的な藩主であった。

◆臭気と下手な日本語  「旧十二月七日爾後、右ノ外、皇国人ニテ、ニ席連続スル聴徒無之、但シ、室中臭気甚シク、且、教師男女共、国音未熟故二、語解シ兼、聴徒一二席ニテ退敗ノ勢」。

 127日以後は、上記の熱心な4人以外に、日本人で連続して出席している者はいなかった。室内が臭気に満ちていたことと、外国人宣教師の日本語の発音が聞き取りにくいためであったと折田は結んでいる。

(資料収集で神戸市中央図書館谷岡史絵さんにお世話になった。お礼申し上げる。)