神戸今昔物語(通産第467号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(10)
折田の上京
◆折田年秀日記 『折田年秀日記 第一』は、明治6年3月13日から始まっている。原文は漢字に、カタカナとひらがなが混じっている。
「明治六年酉三月十三日、晴
一、早朝第六宇、旅装して神社を拝礼し、金飾刀備前法光ノ短刀を奉納して、開運之祈念ヲ凝ラシ、
北堂君幷ニ染江も別離を告ケて酒杯を回ラス。時に、西幷ニ小倉等も見得タリ。此度之東上、実に浮沈之決着スル処故ニ、大小着、袴掛袋、フランケ壱枚ニテ出立タリ。七時ニ家を出、人力車ニテ発ス。三邦丸ニ乗船。
一、朝第八宇、揚碇発ス」
旅立ちの朝の緊迫した空気が伝わってくる。
午前6時、旅装で神社に参拝した折田は、短刀を奉納して開運を祈り、その後、友人や家族と別れの盃を交わした。今回の上京は折田にとり、「浮沈之決着」をする大切な旅である。
折田は、帯刀して、掛袋と毛布一枚を持ち、午前7時に家を出て人力車で波止場へ向い、三邦丸に乗り込んだ。船は午前8時に碇を揚げた。廃刀令(太政官布告)が出されるのは、3年後の明治9年3月である。
折田はこの旅で、大阪、京都、神戸を経て東京へ行き、大蔵省の「八等出仕」を経て、「湊川神社宮司」の辞令を受け取ることになる。
◆大阪、京都、神戸 15日午前10時、三邦丸は安治川に到着した。折田は人力車で阿波座5丁目松江橋西の知人宅で入浴して食事をした。午後4時、折田は、降りしきる雨の中を、人力車で京都へ向い、翌日早朝6時に京都六条に着いた。知人へのあいさつ回りを済ませた折田は、翌16日午前7時、伏見から船で大阪へ淀川を下り、松島から「川蒸気」に乗り換えて、午後7時20分に神戸に到着し、常盤屋に投宿した。それにしても、強行軍である。
17日、折田は、雪の中を、蒸気船に乗って大阪へ行き、知人宅を訪問して、午後6時、神戸に帰着した。
「十八日 晴
一、早朝楠公社江参詣、開運之祈誓ヲ凝ラシ、帰途、与倉直右衛門江出会、黒田清綱之伝聞云ゝを聞、(略)」
折田が湊川神社に参詣したのはこの時が初めてである。
この時点では、折田はまだ宮司に発令されていない。日記に、折田が、知人の与倉から「黒田清綱之伝聞云ゝを聞」いたと書いている。黒田は薩摩出身の教部小輔である。黒田からの伝聞とは、折田の人事についての情報ではないだろうか。
湊川神社は、前年の明治5年5月25日に創建された。別格官幣社の社格が設けられ、湊川神社は第1
号となった。神社は創建されたが、宮司はまだ決まっていなかった。
◆折田上京 18日午後5時半、折田はオルゴニヤ号で神戸を出発した。19日午前5時に横浜に到着した折田は、新橋まで蒸気船で移動した。折田は、その日、渋沢栄一、松方正義を訪問し、夜は、松方の家に泊めてもらった。薩摩出身の松方は後の総理大臣である。
いよいよ折田の東京滞在が始まった。