『セルポート」2014.1.21号
神戸今昔物語(通産第464号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(7)
折田宮司の切支丹布教活動監視報告
◆『洋教捜索之次第』 明治7年1月、湊川神社折田年秀宮司は、外国人宣教師のキリスト教布教活動の実態を、教部省に報告した。神戸市教育委員会『神戸の史跡』から引用しよう。
「明治六年二月政府がキリシタン禁教の高札を除去し、布教を黙認することに決めたので、アメリカ人宣教師グリーンやデヴィスらは元町五丁目に一軒の家を借り、表をキリスト教関係の本屋とし、裏を講義所とした。当初はまだキリスト教の文字をはばかり「真理の話」と大書した赤提灯をぶら下げていたという。旧三田藩主九鬼隆義は夫人子供を連れて、日曜ごとに馬車でその講義に出席した。婦人は極めて美人でしかも洋装であったから、市人の目をひいた。聴衆は次第に増えて数十人に達したので、湊川神社宮司折田年秀はこれを憂い、兵庫の商人の妻を密偵としてその講義に参加させ、『洋教捜索之次第』を明治七年一月に教部省に報告した」
◆教導職 折田はなぜキリスト教布教活動を監視していたのか。このとき、折田が教部省から「教導職」の「権小教正」に任命されていたからである。
教導職とは、「大教宣布」を推進するための職名である。大教宣布とは「神道による国民思想の統一、国家意識の高揚を図った政策」(『日本近現代史小辞典』角川書店)である。明治5年、政府は神祇省を廃止し教部省を設置した。それまで神祇省の所管であった大教宣布に関する業務は教部省が承継した。教部省は新たに教導職を設置して、神官と僧侶を任命した。教導職の階級を「大教正、中教正、小教正、大講義、中講義、小講義、訓導」とし、それぞれ「正・権」を置いた。
4月28日、政府は「教則三条」を発布し「敬神愛国」「天理人道」「皇上奉載」を布教の綱領とした。東京に大教院、各府県に中教院と小教院をおき、神官と僧侶に「修学と教導」に従事させた。
◆折田宮司への発令 明治7年1月13日、折田は教導職「権小教正」の発令を受けた。1月19日の「日記」に折田は辞令の内容を書き残している。
「一、西風別而烈敷、(略)
一、当日ハ御忌日ニテ、神前相仕舞候処、県庁ヨリ式部寮幷ニ教部省ヨリ之御用状来着 す、
湊川神社折田年秀
補権小教正
明治七年一月十三日
太政官
権小教正 折田年秀
兼任湊川神社宮司
明治七年一月十三日 教部大丞三島通庸奉
右之通 宣下、遥命辞令来着、即刻披露、御請書面式部寮坊城式部頭江差立、教部省ニハ大小(少)輔江差立立(ママ)候事、(略)
一、御国許江モ宣下之形申被越候書面仕立、且ツ寧静丸ヨリ荷物仕送之件申遺候、
一、午後三時、車ニテ小教院江出頭、戸長生駒治左衛門江教導職の件申渡置候、
一、御社内、幷ニ官員ヨリ、祝酒幷ニ肴到来ス、
一、今夕、私宅ニテ祝酒、幷ニ合議所説教後ニ、官員江祝酒差出候事、」
1月26日、折田は、兵庫県令神田孝平に教部省への報告内容を説明し、「早朝県令ヲ見舞、洋教一見引合」と日記に書いた。