2013年8月15日木曜日

改正条約施行 握手の初歩 庶民と異文化


『セルポート』2013811日号(連載通算第451号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁(15) 「握手の初歩」

 

◆握手の初歩  新条約発効を2年後に控えた明治30年、「神戸又新日報」に「内地雑居の暁」と題した風刺画が連載された。新条約が発効すれば、外国人居留地が廃止され、外国人と日本人の「内地雑居」が始まる。庶民は、隣人が外国人になることを心配した。言葉と交際のマナーが分からない。

カット「握手の初歩」では、和服の二人の男性が握手をしている。右側の男性は左手を出し、相手の手を握らず、照れくさそうに右手で顔を覆っている。左側の男性は右手を出して相手の左手首を握っている。

握手の習慣がない日本人には、西欧風の握手の仕方がわからないのは当然である。

◆夜会の心得  庶民だけではない。上流階級の人たちも西欧のマナーが苦手だった。

明治19113日、内海忠勝兵庫県知事夫妻が、兵庫県会議事堂で、「天長節夜会」を開催した。内海と同郷の長州出身の井上薫外務大臣が東京で鹿鳴館外交を展開していた頃である。井上に呼応し、内海は神戸で初めての本格的夜会を主催し、外国領事、貿易商と共に、神戸の上流階級の日本人が招かれた。初めての西欧風夜会である。どうふるまえばいいのかわからない。

そんな紳士達の心を見透かしたように、「神戸又新日報」に「夜会の心得」が掲載された(明治191020日号)。井上薫外相も、夜会に招かれた日本人のために、夜会マニュアル『内外交際宴会礼式』を編述している。

記事「夜会の心得」は、夜会の定義から始まり、衣服、時間、挨拶等についての心得を具体的に細かく列記している。

「夜会の席にて、(略)猥(みだり)に婦人に向て、握手を試みる可からず。握手は凡へて婦人より之を促すものと知る可し。又、自分より目上の人、若くは、年長の人に対し握手を促すは、敬礼の道にあらず」と心得を紹介している。

◆現代人も握手は苦手  平成25年、日本経済新聞(511日号、「プラス1」)に握手のマニュアル記事が掲載されていた。

「握手は目を見て力強く」「お辞儀しないで堂々と」の見出しで、外国人が困惑する日本人の握手の例として、①目を見ないで手を握る(相手から不誠実と思われる)、②力を入れずに手を握る(熱意がないと勘違いされる)、③お辞儀しながら握手する(卑屈な印象を与える)を挙げている。

「握手は交渉の第一歩、握り方によって、相手が持つ第一印象が大きく変わる」「相手の目を見て手を力強く握るよう心がけたい」と記事は結んでいる。

この記事が掲載された3日後の514日、安部政権の某内閣官房参与が北朝鮮を訪問した。小泉首相秘書官をしていたこともある強面の人である。参与は、北朝鮮ナンバー2の金永南最高人民会議常任委員長と握手したとき、やはり、相手の目を見ずにぺこりと頭を下げていた。いつの時代も日本人は握手が苦手なのである。

 


2013年8月6日火曜日

改正条約施行「外字記者征伐」ハーンと兵庫県知事服部一三 神戸の英字新聞


『セルポート』201381日号(連載通算第450号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁(14) 「外字記者征伐」

 

◆「外字記者征伐」 カットのタイトルは「外字記者征伐」である。外国人記者の首に「新聞紙条例」が突き付けられ、手にペンを持った記者は困惑している。「外字記者」とは外国語新聞の記者であり「新聞紙条例」は新聞取締法である。居留地時代、政府は、「新聞紙条例」で国内の新聞を統制したが、外国人が発行する外国語新聞には手が出せなかった。新条約が発効すれば、外国語新聞にも条例を適用できる。

◆新聞紙条例  明治元年、政府は新聞の無許可出版禁止を布告した。翌明治2年、政府は新聞を許可制としたが、検閲は行わず新聞発行を奨励した。明治7年、民選議院設立建白書(国会開設建白)を機に「民権論」が起こり、新聞雑誌による反政府的言論活動が活発化した。明治8年、政府は、言論統制令である「讒謗律」(ざんぼうりつ)とともに「新聞紙条例」を公布し、「政府変壊、成法非難」を禁じ、違反者には刑罰を課すこととした。明治9年、付加規則で「国安」妨害記事に対し、内務卿による発禁等の行政処分権を認めた。明治16年の全文改正で、府県知事への事実上の行政処分権付与等、新聞への制限を強化した。明治20年改正で許可制を届け出制に緩和し、明治30年に行政処分権を廃止し、発禁等は司法処分権とした(『日本近現代史小辞典』角川書店)

◆神戸の英字新聞  神戸開港3日後の慶応31210日、神戸で最初の英字紙「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド」が創刊された。同紙は、居留地会議、領事裁判、領事館布告、居留地ニュース、日本国内情勢、本国情報等を報道していたが、後発の「ヒョーゴ・ニューズ」に徐々に押され、明治8年に廃刊となった。廃刊を明治45年とする説もある。

「ヒョーゴ・ニューズ」は、明治元年4月発刊である。当初は週1回発行であったが、明治24月に週2回発行になり、明治10年から日刊紙となった。明治32年、夕刊紙となり「ヒョーゴ・イブニング・ニュース」と改称し、同年9月、本社焼失を機に「コウベ・クロニクル」と合併した。明治33年、「コウベ・クロニクル」は、「ジャパン・クロニクル」と改称した。

◆ラフカディオ・ハーン  ハーンも「コウベ・クロニクル」(明治24年発刊)の論説記者であった。明治2710月末に来神したハーンは、明治29820日に東京帝国大学英文科講師として転出するまで、下山手4丁目7番地、同6丁目26番地、中山手7丁目16番地に移り住み、明治292月に日本に帰化して、姓を小泉と改めた。日本文化を愛したハーンは、開港した神戸が、日本の良さを失いつつあることを嘆き、外国人居留地の軽薄さを皮肉った論説を残している。

ハーンは、明治17年秋にニューオーリンズで、服部一三に出会って日本に興味を持ち、服部のあっせんで松江中学校の英語教師となった。服部は後の兵庫県知事である。もし、服部との出会いがなければ、日本文化を英語で紹介したハーンの名作は生れなかったかもしれない。