『セルポート』2012年9月21日号(連載通算第421号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第89話
芦屋・大楠公戦跡碑 斎藤幾太と打出焼
★斎藤幾太と打出焼 大楠公戦跡碑の土地提供者である斎藤幾太は、「打出焼」創設者としても知られている。
打出焼は、精道村打出(現芦屋市楠町13)に邸宅を構えていた斎藤幾太が、明治39年、「琴浦焼」創始者である和田九十郎正隆の協力を得て、お庭焼として創窯した(藤川祐作「打出焼の歴史」『生活文化史』神戸深江生活文化史料館、2009.3.31号)。
明治34年、和田は西宮大社村に開窯した。大社村は、幾太の邸宅からさほど離れていない。琴浦焼の名は、和田の次男正只が、明治43年に尼崎市東桜木町に移窯したとき、尼崎の古名である「琴の浦」にちなんでつけたものである。(「琴浦焼、打出焼に関する考察」西宮・ひじり屋URL)。
★打出焼 当時、精道村は石材と粘土の産地でもあった。幾太は、打出丘陵の良質の粘土に着目し、京都から陶工を招いて、番頭の坂口庄蔵(号・砂山)に作陶させた。
明治43年、坂口が幾太から独立して開窯した。場所は、現在の春日町21である。
大正3年1月、幾太は、資本金1万円で合資会社打出焼陶器工場を設立した。幾太は、「その後事業の一切の経営を坂口砂山氏に譲ったといわれている」(西田益蔵「芦屋ところどころ⑬打出焼」『芦屋市弘報』昭和30年3月20日号)。
打出焼工場には、8段の本窯と1つの素焼窯があり、うち1つの窯は飛びぬけて大きい焼成室で、ここで大きな物を焼いていた。ロクロが6~7台あり、1室の焼成時間は40時間であった(『西摂新報』(大正4年5月23日付)、藤川上掲論文)。
打出焼の製品は、「日用品一切、花瓶、菓子器、茶器類等」で、「主として大阪、神戸、灘、東京及び奈良方面へ販売」されていた。大小の徳利に鹿が座った絵と「奈良土産」と印刻された作品もあった。
昭和48年、春日町が土地区画整理事業の対象になり、打出焼の窯は取り壊された(藤川、上掲論文)。
★戦後の打出焼 昭和24年、芦屋市の広報誌『あしや』に「海を渡る打出焼」と題した記事が掲載された。米国人観光客への打出焼の紹介と宣伝を依頼された、米国船会社アメリカン・プレジデント・ラインズ(APL)神戸支社のキリオン氏は、打出焼に興味を示し、大変珍重した。同誌は「将来打出焼がアメリカ、ヨーロッパに船出する日が近い」と期待を込めて書いている(藤川、上掲論文)。
当時、APLは、米国西海岸と日本を結ぶ太平洋航路に定期貨客船を運航していた。昭和28年、皇太子殿下(今上陛下)が、外遊の際、APLのプレジデント・ウイルソン号で渡米された。
★市制施行10周年の引出物
昭和25年、芦屋市の市政施行10周年記念式典で、市章入りの打出焼が引出物として参加者に配られた。翌年、高野山の寺院から記念品の注文が届いた。昭和28年、結婚式の引出物に打出焼の茶碗を注文した市民がいた(藤川、上掲論文)。
今年7月、筆者が、芦屋市翠ヶ丘の知人宅を訪問した際、玄関脇にあった傘立てが打出焼と知った。打出焼は今も市民の生活に溶け込んでいる。
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