2012年8月5日日曜日

芦屋精道村 斎藤幾太(「湊川神社物語」『セルポート』2012.8.11号 )


『セルポート』2012811日号(連載通算第418号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第86
          
          芦屋・大楠公戦跡碑

★精道村  「大楠公六百年大祭」記念事業として「精道村教化連合会」が「大楠公戦跡碑」を建立した。土地(130坪)を提供したのは打出村の斎藤幾太である。
打出村は、明治22年の市制町村制施行に伴い、芦屋村、三条村、津地村と合併して精道村となった。昭和151110日、精道村は、全国173番目の市・芦屋市になった。
★斎藤幾太 戦跡碑建立のため土地を気前よく提供した斎藤幾太(18591938)とはどのような人物か。細川道草『芦屋郷土誌』(昭和38年)から幾太の生きざまを概観しよう。
幾太は叔父の藤田伝三郎が経営する藤田組の役員をしていたが、幾太の厳格な性格を社員が嫌がり社務が滞ることがあったため、若くして隠居させられることとなった。隠居場所は、打出村字堂である。国鉄西宮駅から十数町も離れた不便な場所である。ここが、隠居場所に選ばれたのは、幾太が隠居後、会社に顔を出しにくくするためである。明治33年の精道村は戸数500戸の寒村であった。阪神電車(明治38年開通)も、阪急電車(大正9年開通)もまだ開通していない。
幾太は打出で悠々自適の生活を営んだ。毎朝、馬に乗って付近の散歩を楽しんだ。痩躯で上下に長いヒゲを蓄えた幾太は「威容自ら人を服せしむるものがあった。資性温厚陰徳を好み、博愛の情に富み、私財を投じて本村(精道村、筆者)の発展事業に尽くした功績はまことに大きい」(上掲書)。幾太は、村の不就学児童を集めて自宅に夜学校を開き、貧困者には毎月米を与えたので「打出の殿様」とよばれた。
★芸術愛好家・斎藤幾太  幾太は俳句を好み「紫水庵砂明」と号した。京都の花ノ本聴秋宗匠を師とし、毎月、双葉会という句会を自邸で開き自ら撰者となった。幾太は茶道にも造詣が深く、自邸で茶会を催した。
幾太の古美術収集も半端ではない。「インターネット版「奥の細道文学館」」に、幾太の名が出ている。『良本』と呼ばれる『おくのほそ道』成立までの推敲過程を伝える重要な資料が、曽良の死後、故郷上諏訪の河西周徳(曽良の甥)に随行日記とともに伝えられていたが、その後、「古美術収集家の斎藤幾太」などに伝わり、現在、随行日記とともに天理大学附属天理図書館錦屋文庫に所蔵されている。
幾太は、陶芸にも興味を持ち、琴浦焼の創始者和田九十郎正隆の協力の下、「お庭焼」として「打出焼」を創窯し、番頭坂口庄蔵(号・砂山)に制作させた。幾太が、打出焼で作った棺桶に入って生前葬を営んだエピソードも伝えられている(藤川祐作「打出焼の歴史」(『生活文化史』神戸深江生活文化資料館、2009.3.31号)。
★幾太の胸像  昭和1210月、精道村教化連合会は幾太の功績をたたえ、大楠公戦跡碑の境内に、幾太の胸像を建立した。除幕式典で、幾太は一場の所懐を述べ、令嬢利子が除幕した。惜しいことに、この胸像は第二次大戦中に軍に供出され、現在は礎石が残っているだけである。

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